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まつの きくたろう

松野菊太郎

まつの きくたろう

1868.2.16(慶応4.1.23)〜 1952.1.25(昭和27)

明治・大正・昭和期の牧師、
日本のホーリネス運動の草分け

埋葬場所: 15区 1種 17側

 甲斐国八代郡下曽根(山梨県東八代郡中道町)出身。1885(M18)東京商業学校に入学し、1888 志を抱いて中退し渡米、サンフランシスコで働く。
 1889 日本人福音教会寄宿舎の祈祷会に出席し、キリスト教に触れ、メゾシスト教会の M・C・ハリスから洗礼を受けた。笹尾鉄三郎ら日本人たちのリバイバルを経験し これをきっかけに 伝道に身を投じる。1893.9 アメリカで按手礼を受ける。ハワイで伝道した後 1894 帰国。
 帰国後、米国で一緒だった笹尾鉄三郎、河辺貞吉ら純福音派の仲間たちと「ちいさな群」を結成して、共同生活を営み、東京でリバイバル伝道を行った。伝導のため「キリストの福音、救いの歌」と題する讃美歌集を編纂。
 1895 榮子(同墓)と結婚し、郷里の甲府にてバプテスト宣教師J・C・ブラントを助けて開拓伝道。さらに水戸でも伝道。1900 東京に戻り、文書伝道の傍ら、芝新網の困窮者伝道に従った。'03 東京伝導学校教授に就任。日露戦争が始まると『黙示録略解』を出版した。
 '06 小崎弘道(8-1-7-1)の霊南坂教会の副牧師となる。'07 麻布クリスチャン教会(日本基督教団聖ケ丘教会)牧師に就任。無牧の状態にあった同教会を自給教会へと育成した。その後、37年間(1944)在任。
 温厚な人柄と敬虔な信仰心から信徒たちに慕われ、'09 教会員に呼びかけて「報恩会」を組織し、貧しい結核患者の慰問と財的援助に尽力した。これは有志から毎月「健康税」として十銭づつを徴収しこれを積み立てて、身寄りの無い結核患者を援助するもので、それが組織化したものである。また活動資金集めのため有志が会費を出し合って演芸会などを催し、利益を報恩会に捧げた。これが後に教会や各種団体が行う様になった音楽会や映画会などの催しの先駆である(現在の信愛報恩会)。
 その他、日本クリスチャン教会年会議長、日本日曜学校協会理事、日本基督教会同盟幹事、東京YMCA監事、全国協同伝道の日本継続委員、教文館総主事などを歴任した。'33(S8)「神の国新聞」に連載をしていた『天使の手記』を出版。
 '33 ホーリネス分裂事件の際には間に入り調停を助け、'35.11.28 鉄道ホテルで行われた和協分離の午餐会に参加する。そこで、日本ホーリネス教会の中田重治(19-1-3)監督派と車田秋次委員会らと共に席に付いた。
 '44 牧師を引退し、戦後は『基督教勘どころ』『基督教梗概』を著した。享年83歳。

<キリスト教人名辞典>
<20世紀日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>


墓所

*墓石前面「松野家之墓」、裏面「汝らの名の…」福音の言葉が刻む。墓所入口に「我父家 多第宅」と刻む標石があり、その裏面が墓誌となっている。妻の松野榮子から刻みが始まり、菊太郎、和夫、新、芳枝(新の妻)、美智子(和夫の妻)が刻む。また作詞作曲 松野和夫の「忘れるもんか」の碑が建つ。


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