肥後国託麻郡本山村(熊本市中央区)出身。熊本藩士の小崎次郎左門の次男として生まれる。
1871(M4)熊本洋学校に入学。塾長補助や生徒取締を任ぜられ、小学校の算数教師も務めた。1876.1.29 熊本洋学校の生徒35名が熊本郊外の花岡山に集合し、翌日、奉教趣意書に署名し、キリスト教を日本に広め人民の蒙を啓くことを誓約した(熊本バンド)。署名をした人物は、横井時雄、浮田和民(4-1-25)、海老名弾正(12-1-7-18)、金森通倫(15-1-13)、徳富蘇峰(6-1-8-13)らがいた。この時、小崎は儒教の道を選択し参加をしなかったが、後に彼らが迫害を受けた花岡山事件を転機に、海老名弾正の誘いもあり、同.4.3 L・L・ジェーンズから洗礼を受け、熊本バンドの一員になった。
同年、熊本洋学校閉鎖に伴い、同志社英学校に転入し新島襄と出会う。在学中に彦根伝道に参加。1876.6(M12)同志社を第一回卒業生として卒業。卒業後、新島と共に日向伝道を行う。
1879.10 上京し、京橋区新肴(しんさかな)町に組合派の新肴町教会を設立、同.12 按手礼を受けた。一致神学校で講師、翻訳活動を行う。1880.3 植村正久(1-1-1-8)、井深梶之助、田村直臣、平岩愃保らとともに東京基督教青年会 (YMCA) を創設し初代会長に就任した。創設する際に、YMCAの『Young Men's Christian Association』を「基督教青年会」と翻訳し命名。これは「Young Men's 」を「青年」と日本語で最初に使用紹介した事とされる。なお、これまで、『Religion』を福沢諭吉は「宗門」「宗旨」と訳し、中村正直は「法教」と訳していたが、小崎は「宗教」と訳し以降日本で定着した言葉となった。
同.10 キリスト教をはじめとした思想一般に加え社会問題も取り扱った青年会機関誌『六合雑誌』(りくごうざっし)を創刊。同誌にて、初期社会主義思想を紹介した『近世社会党ノ原因ヲ論ズ』を発表。これはマルクス紹介の先駆とされる。
1882 新肴町教会と粟津高明の日本教会とが合併して東京第一基督教会となる。1883 週刊新聞「基督教新聞」を刊行し、植村正久らと出版社「警醒社」を設立。1886.6 封建制度と結びついた儒教思想に対する最初の近代的な批判として評価された『政教新論』刊行した。同年、赤坂霊南坂に教会堂を建立。欧化主義の波に乗り、上流階級にも伝導し番町教会を設立。
1889 同志社で行われたYMCAの夏季学校にて「聖書のインスピレーション」と題して講演をした。小崎は「余はこの講義において、霊的倫理的インスピレーション説なるものを主張し、聖書に誤謬が有るとか無いとかいうが如き窮屈な見解を放擲し、之に向かっては自由研究をなさねばならぬ。又吾人は信仰の基礎を聖書に置くことをせず、聖霊即ち実験に据えねばならぬことを述べた」。この高等批評を擁護し聖書信仰を否定したことが、ここから日本のリベラルが始まると言われている。
1890.1 新島襄没後、同.3 同志社校長に就任。1892より同志社社長を兼ねた。この間、1891(M24)赤坂霊南坂教会を「霊南坂教会」に改称。1893 米国シカゴで行われた世界宗教大会に日本基督教代表として出席して「日本におけるキリスト教の大勢」と題して演説を行った。演説は日本文化や思想の優位性を強調しすぎたものであったため、視聴していた宣教師たちから不評を買い、現地の新聞に批判記事が掲載された。その後、8カ月間、イェール大学で神学研究を行い帰国。帰国後、同志社に派遣されていたアメリカン・ボードの宣教師たちとも軋轢が生じ、1896 外国人宣教師団は同志社と絶縁するに至った。翌年、学内混乱の責任をとって社長を辞任した。
辞任後、東京に戻り、京橋教会の牧師を務める。霊南坂教会牧師の留岡幸助(13-1-18-1)と協議し、京橋教会を霊南坂教会に吸収合併させ、同教会の牧師に就任した。1898 伝道誌『新世紀』、1900『東京毎週新聞』を刊行。'02 妻の千代と共にハワイ全島伝道を行う。'03 東京伝道学校を開校。また、'05 再び妻の千代と共に北アメリカ太平洋沿岸で伝道も行った。'04 日露戦争に対して主催した大日本宗教家大会において協力の立場を表明し、海老名弾正らと主戦論を唱え、軍隊へ慰問団を派遣するなどした。'10 日韓併合後は、組合教会は朝鮮人伝道を決議し渡瀬常吉(23-2-7)を派遣した。
日本基督教連盟、日本基督教会同盟、海外基督教伝道教会、日本福音同盟会、日曜学校協会、南洋伝道団などの会長(団長)を務め、日本プロテスタントの中心的指導者として活躍。'20(T9)世界日曜学校大会を日本で主催し日本代表として出席。世界宣教大会などにも日本代表として出席した。
正統的信仰の立場にたち新神学とは対決。また教育勅語発布以後、国家主義が強化されていく状況の中、ひたすら信仰と教会のミッションスクールを守る立場をとった。'31(S6)霊南坂教会の名誉牧師に就任した。主な著書は『政教新論』(1886)、『基督教の本質』(1911)、『国家と宗教』など多数あり、没後『小崎弘道全集』 (6巻:1938-39)でまとめられた。老衰のため神奈川県茅ヶ崎の別荘で逝去。享年81歳。
<コンサイス日本人名事典> <ブリタニカ国際大百科事典> <日本キリスト教総覧> <新島襄の後継者−小崎弘道・海老名弾正 キリスト教文化センター> <人事興信録など>
*十字が刻む前面「我は復活なり 生命なり 我を信ずる者は 死ぬとも生きん」と刻む。裏面「浅野春は姉奉教四十六年恩龍感謝の為 此塋域を寄附せらる 昭和九年(主降生千九百三十四年)四月一日生 霊南坂基督教會」と刻む。
*小崎弘道・千代の墓は青山霊園(1ロ8-35)が正墓として存在するが、この霊南坂教會塋域(霊南坂教会会員墓地)にも分骨されている。
*1881(M14)幕臣の岩村信達、茂登の長女の千代と結婚。長男はキリスト教牧師の小崎道雄(同墓)。三女の安子は、母方祖母(千代の母)の岩村茂登の養子に出す。1913(T2)同志社神学部を卒業したばかりの木村清四郎と安子は婚約。清四郎は米国留学後、'16.7.3 婿養子で岩村姓となり岩村清四郎(1889.1.9-1978.4.20)として霊南坂教会副牧師となる。なお、清四郎の実兄は基督教伝道者の木村清松。清四郎と安子の二男は牧師の岩村信二。
*霊南坂教会牧師を務めた留岡幸助の後妻で社会事業家の留岡きく子(13-1-18-1)は霊南坂教会で永別式(葬儀)を行った(1933)。
【日本キリスト教団 霊南坂教会】
1879(M12)12月13日、当時23歳であった小崎弘道牧師と11名の青年たちによって赤坂霊南坂町に
「霊南坂教会」として設立された。1917(T6)建てられた赤いレンガづくりの教会堂は、
東京駅を設計した辰野金吾の手になるもので、関東大震災や第2次世界大戦中の空襲にも難を逃れ、
大正時代の名建築として親しまれた。しかし、この「丘の上の赤レンガの教会」も次第に老朽化し、
1970年頃改築した。現在は旧会堂から約50メートル東に、ほぼ同面積の土地を得て存在する。
同教会で、結婚式をあげた著名人に山口百恵や郷ひろみがいるが、一般の方々の挙式はお断りしているとのことだ。
所在地:東京都港区赤坂1丁目14番3号
TEL:03−3583−0403
アクセス:
地下鉄日比谷線神谷町駅または六本木駅下車徒歩5分
地下鉄銀座線虎ノ門駅下車徒歩5分
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