岡山県高梁出身。理髪業を営む父・吉田満助の次男として生まれた。生後まもなく留岡金助・勝子の養子となり、8歳で漢学塾に学び、小学校に通う。1880(M13)キリスト教を知り、1884高梁教会で上代知新から受洗した。
漢学の塾に通っていたころ武士の子とけんかして、翌日、父が武家屋敷に呼び出され出入り禁止となったために激しい折檻を受けた。のちキリスト教の伝道で「士族の魂も町人の魂も赤裸々になって神の前に平等」の精神を信仰に表明して貫いた。
1888同志社神学校に入学。卒業後、丹波教会の牧師となる。監獄の改良を志し、1891(M24)北海道空知監獄の教誨師となり、不良少年教化事業の必要を痛感。1894渡米し、監獄制度、感化事業を学び、帰国後、1897.6〜1899.5(M30〜32)第7代霊南坂教会牧師。
就任した年の11月7日に後に社会事業家として活躍する本間俊平が幸助から受洗した。また1898巣鴨監獄の教誨師となり、1899巣鴨に不良少年感化のための家庭学校を創設した。
かたわら内務省嘱託として日清戦争後の貧民救済問題と、日露戦争の社会改良につとめ、報徳主義を以って社会教化にあたった。
第一次世界大戦後は社会事業調査会の委員として社会事業の発展に貢献した。1913内務省嘱託辞任後は家庭学校の経営に専念。
北海道や神奈川県下にも分校を設けた。終生、少年感化、監獄改良、教化事業に尽くした。 著書に「慈善問題」「感化事業之発展」「留岡幸助著作集(全5巻)」などがある。
先妻の夏子(同墓)も高梁教会で受洗して神戸女子伝道学校を卒業後、夫の伝道、社会事業に苦楽をともにした。夏子との子は6名(5男1女)であり、官僚の留岡幸男(同墓)、教育家の留岡清男(同墓)を儲けた。
後妻のきく子は高梁順正女学校を卒業後、幸助の巣鴨家庭学校の保母をつとめ、先妻の6人の子と、さらに4男3女の生母として夫の幸助の教育実践や社会事業を支えた。
'31巣鴨の家庭学校本校にて奉教50年を祝う感謝の会で、徳富蘇峰(6-1-8-13)と会談中に脳溢血で倒れた。'33後妻のきく子夫人に先立たれたのを機に、家庭学校の名誉校長に就任し現場から退いた。なお、2代目校長は牧野虎次。自宅にて死去。享年69歳。感化事業の父と称される。