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わたぜ つねよし

渡瀬常吉

わたぜ つねよし

1867.8.27(慶應3.7.28)〜 1944.10.14(昭和19)

明治・大正・昭和期のキリスト教伝道家(朝鮮布教)

埋葬場所: 23区 2種 7側

 肥後国八代(熊本県八代市)出身。武士の渡瀬勝礼の長男として生まれる。実弟に牧師となる千葉昌雄、渡瀬主一郎がおり牧師三兄弟である。徳富蘇峰(6-1-8-13)の大江義塾に学び、18歳の時に八代教会でキリスト教に入信した。熊本英学校教師を経て、1907.4.23(M40)神戸教会第6代牧師に就任。
 朝鮮総督府より組合教会の海老名弾正(12-1-7-18)に朝鮮においての布教活動の依頼があり、海老名の直弟子であった渡瀬が選出された。 1910(M43)日韓併合により、総督府の援助を受けた日本組合基督教会から朝鮮伝道の主任牧師として派遣された。 朝鮮人の臣民化とキリスト教伝道を強力に推進し、一時は200の教会と信徒2万人を数えたが、独立運動の高まりとともに、朝鮮布教は衰退し、朝鮮伝道部は廃止された。 1921(T10)帰国。この朝鮮伝道は総督府の機密費を受けたため、柏木義円らが反対し、教会と国家の関係のあり方に深刻な教訓を与えた。
 1923(T12)台湾に赴き、勅語尚早説を唱える。以後も布教活動を展開した。主な著書に、『朝鮮教化の急務』('13)、古事記と聖書の内容は同じであると唱えた『日本神学の提唱』('34)など。朝鮮の京城で没す。享年77歳。 子に新聞人・放送経営者の渡瀬亮輔(同墓)がいる。

<朝日歴史人物事典など>
<森光俊様より情報提供>


墓所

*墓石には「渡瀬常吉之墓」。墓面右に「埋骨の南山われに紅葉して」、左に昭和十九年十月十四日於京城歿 / 昭和二十五年一月 亮輔建之」と刻む。 なお、墓所には5基の墓が建つ。正面が渡瀬常吉と渡瀬佐恵の墓。右側に渡瀬亮輔と渡瀬義子の墓。左側に渡瀬家之墓。


【朝鮮布教活動】
 1910(M43)「日韓併合条約」締結によって「大韓帝国」は日本の植民地「朝鮮」となる。朝鮮のプロテスタント教会はアメリカおよびカナダ人宣教師によるものであった。 総督府はキリスト教こそが朝鮮支配の妨げであると感じていた。日本の侵略に抵抗した民族主義者たちは国力をあげて自主独立を実現するという思想のもと、言論による啓豪運動を行い新しい文化を吸収しようとしていた。 総督府はこのような動きがキリスト教によって支えられていると見なした。
 柳東植によれば、初代統監伊藤博文は「日本にとって最大の危険な存在の一つは、朝鮮キリスト教界である」「朝鮮において日本とキリスト教は共存できない。どちらか一方を無くさねばならない」と考えていたという。 総督府は、宣教師が抗日思想を吹き込んでいる宣教師系教会を弾圧し、総督府の宗教政策にのっとった教会である日本の「組合教会」を拡張し、朝鮮のキリスト教を組合教会系にまとめようとしていた。 そこで総督府は日本基督教会の植村正久(1-1-1-8)に朝鮮伝道を持ちかけたが断られ、組合教会の海老名弾正に依頼し承諾を受けた。その任には海老名の直弟子であった渡瀬が当たることとなったというのが経緯である。 しかし組合教会の中心人物であった柏木義円、吉野作造(8-1-13-18)らは朝鮮布教は「総督府の肝煎り」と朝鮮同化政策に対して批判的態度を取り、渡瀬に反対をしたが、朝鮮伝道部長に選ばれた渡瀬は任を遂行するために神戸教会の牧師を辞任。 1910(M43)日本組合基督教会から朝鮮伝道の主任牧師として派遣された。
 渡瀬は『日本神学提唱』という書物を出版。これは古事記と旧約聖書の同一点について論じているものである。天皇制国家を目指す過程で、キリスト教信者の戦争協力を可能にするという政治的意味を有していた。 キリスト教を否定せずに天皇制へと論点をすり替える布教活動により、朝鮮では一時、信徒2万人をかぞえたが、日本側の朝鮮同化政策に対してにわかに反発も強くなり、ついには三・一独立運動の暴動が起きた。
 吉野作造は三・一独立運動に先立つ1916(T5)「満韓を視察して」という文章を著し以下のことを述べている。「一方には汝等は日本国民なりといひ、一方には汝等は普通の日本人と伍する能はざる劣い階級の者なりといふ。斯くの如くにして朝鮮人の同化を求むる、これ豈木に縁つて魚を求むるの如きものではあるまいか。」三・一独立運動自体については「対外的良心の発揮(1919)」という文章において以下のことを述べている。 「今回の暴動が起つてから、所謂識者階級の之に関する評論はいろいろの新聞雑誌等に現はれた。然れども其殆んど総べてが、他を責むるに急にして自ら反省するの余裕が無い。あれだけの暴動があつても尚ほ少しも覚醒の色を示さないのは、如何に良心の麻痺の深甚なるかを想像すべきである。」 結果的に吉野のような意見は多数的ではなく、独立運動の高まりとともに、朝鮮布教は衰退し、朝鮮伝道部は廃止された。1921(T10)渡瀬は帰国。

<「アジアのキリスト教」日本植民地支配下のキリスト教 香山洋人など>


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