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ほんだ よういち

本多庸一

ほんだ よういち

1849.1.7(嘉永1.12.13)〜 1912.3.26(明治45)

幕末の志士、明治期のキリスト教伝道者、政治家、教育家

埋葬場所: 4区 1種 35側 1番

 陸奥国(青森県弘前市)出身。本多の先祖は徳川家譜代の本多氏の流れを汲む深津作兵衛。弘前藩士の本多八郎左衛門久元・トモの長男として生まれる。幼名は徳蔵。本多家11代の武士としての正式な呼び名は本多庸一久亨。
 1865(慶応1)藩校稽古館で漢書や儒学を学び、手回組士として出仕して藩校司監となる。1868戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加するため白石城に派遣され、次いで函館へ転属を命じられる。 弘前藩が一変し薩長同盟側に付くことに反対し、脱藩し、切腹も考えたが止め、弘前藩兵の捕虜で部隊を編成して庄内藩軍に加わり、秋田戦争に従軍。薩摩の西郷従道(10-1-1-1)の指揮する薩摩軍三番小隊と交戦する。 庄内藩降伏後、弘前藩に帰藩。戦後、本多らの行動を「義挙」として称えて帰国を許した。1869函館戦争では藩命に従い、青森湊で参謀になる。
 1870(M3)漢訳聖書の創世記を一部読む。同年、藩命で英学を修めるために横浜に出、横浜修文館でS.Rブラウンに英語を学び、1871 J.H.バラの塾に入学。バラ塾生の本多、植村正久(1-1-1-8)、押川方義がバラに要請して祈祷会を始めた。 それがきっかけで日本初のプロテスタント教会日本基督公会が設立された。一端郷里に戻されるも、1872再び自費で横浜に遊学し、バラより受洗。横浜バンドの一人となる。日本基督公会の伝道師として神奈川県をはじめ、房総地方に伝道。
 1874帰郷し、稽古館の後身の東奥義塾を再興し塾頭となり、J.イングらと共に東北地方伝道を志す。1875弘前公会を創立し伝道の拠点とする。また、共同会を結成し、自由民権運動にも参加、国会開設を請願する。 1882青森県議会議員に当選し、議長として活躍。東京−青森間の鉄道敷設問題で上京奔走する。1884メソジストに転じ按手礼を受け長老となった。1886議員を辞し、仙台教会(仙台五橋教会)牧師として赴任。
 1887東京英和学校(青山学院)校主 兼 教授および青山美以教会牧師に就任する。1888渡米。列車事故をまぬがれたのを契機に伝道・教育に専念する決意を固める。ドルー神学校に学んだのち、1890帰国。 東京英和学校校主(校長)に就任し、1894青山学院と改称し第2代青山学院院長を歴任。以後、17年間学校経営に当たり、学院発展の基礎を築く。
 その間、1892「教育と宗教の衝突」や、1899宗教教育を禁止する文部省訓令第12号反対運動の指導者として活躍するとともに、日清戦争に際し、清韓事件基督教同志会委員長、征清軍慰問使として戦地に渡り戦争に協力。 また、日露戦争で内村鑑三(8-1-16-29)・柏木義円らが反戦論を唱えたのに対し、1904『征露論』『征露と伝道』を著し、主戦論を主張した。キリスト教各派は連合して、戦時伝道部を設け、戦地を慰問。 日本キリスト教青年会同盟委員長の本多は、大日本福音同盟会委員長の小崎弘道(8-1-7-1)と一緒に、キリスト教の共同的奉仕について檄を飛ばした。また、メソジスト・エピスコパルの日本年会の任命した韓国伝道委員会委員長を兼ね、中田重治(19-1-3)を同行者にして、韓国を訪問。
 1907日本メソヂスト教会設立に伴い、青山学院院長を退き、初代監督となる。日本独自の宣教組織を確立した。1912.2.25内務次官の床次竹二郎(12-1-17-18)の企画で、原敬内務大臣主催の神仏基の三教会同が行われ、キリスト教の代表として千葉勇五郎(25-1-78)ら7名と出席した。 メソジスト教会西部年会のため長崎市に滞在中、両肺気管支カタル、脳出血等の病気で客死。享年62歳。青山学院の弘道館にて追悼会が行われた。「尊皇愛国」の志をもってキリスト教を日本に根付かすべく尽力した。 座右の銘は「敬天愛人」。1965(S40)日本メソジスト教会最後の監督で本多の甥の阿部義宗が本多の業績を記念して、東京都渋谷区代官山に「日本基督教団 本多記念教会」を設立した。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<日本キリスト教総覧など>


墓所 本多家之墓

*正面墓石に「本多庸一之墓」。裏面には生没年月日が刻む。墓所右側に「本多家之墓」、墓誌が並ぶ。

*「本多家之墓」の墓石の裏面は墓誌となっており、右から順番に、庸一の後妻で婦人運動家として活動した本多てい、七男の鐘七(M32-M40)、三女の しつ(M28-M44)、四男で山形美以教会牧師を務めた愛雄(M22-T7)、六男の為六(M30-T8)、二郎の妻の滋子(M13-M41)、二郎の長女のハナ(T7-S17)、二郎の長男の太郎(M44-S20)の続柄・俗名・生没年月日が刻む。 「本多家之墓」の右隣になる墓誌には、右から、次男で本多家の当主を務めた本多二郎(M12-S33)、五男で母ていの姉の嗣子となり長嶺家を継ぎ、外務官僚や教育者として活躍した長嶺直哉(M27-S51)、当才で亡くなった本多淑、長嶺直哉とマリア・フリアとの間の娘の AMELIA SHIDZU NAGAMINE(英語表記で刻む)、二郎の姪の元子、元子の夫で東北学院大学工学部教授を務め、『本多庸一とその家族』などを執筆した本多繁が刻む。 なお、本多家は二郎の息子太郎が早死したため、二郎の姪の元子と夫の繁が養子となり跡を継いだ。

*4男の本多愛雄(M22-T7)は父と同じ牧師の道に入り、1915(T4)山形美以教会(山形本町教会)の牧師として着任し、隣地の民家を購入し会堂改築を計画するも、病気を患い死去した。

*青山学院内に「本多庸一先生之像」が建つ。

*本多庸一の墓は最初、青山霊園にあったが、1932(S7)多磨霊園に改葬。

*本多家の菩提寺は青森県弘前市新寺町の「本行寺」であり、父や代々はここに眠る。また1886(M19)前妻の みよ子が急死した際に、ここに埋葬をしたが、宗派の違いから寺門を閉められ、交渉で通用門から通ることを許され埋葬ができたとのこと。後に寺の高僧と親交を結ぶようになり、小さな自身の「本多庸一久亨墓」も建つ。なお、長男、三男、次女も早死のため本行寺に眠っている。

*多くの人名事典では本多庸一の名前のヨミを「よういつ」としていますが、遺族の手記によると「よういち」が正しいようなので、ここではそれにします。


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