メイン » » » 本多てい
ほんだ てい

本多てい

ほんだ てい

1862(文久2.1.9)〜 1931.3.18(昭和6)

明治・大正期の婦人運動家

埋葬場所: 4区 1種 35側 1番

 盛岡出身。盛岡藩士の長嶺忠司・タミの次女として盛岡新小路に生れる。旧制は長嶺。名は貞。最初は長嶺サダ、後に本多貞子(ていこ)。姉のゲン、妹のヨシとの三姉妹と母のタミは1878一緒に上京している。
 幼少より学業に優れており、1876(M9)小学校の助教師に採用され、1878岩手県より選抜され給費生として上京し女子師範学校に入学。1879熱心なクリスチャンであった櫻井ちかの影響もあり受洗。 1881卒業後は、櫻井ちかが創立した東京市麹町の桜井女学校教員に奉職する。しかし、学費を負担した岩手県から強引に呼び戻され、1883.4.12「任岩手師範学校一等助教諭長嶺サダ但月給金拾五円」と辞令が出て、盛岡市の尋常師範学校付属女子部教員となった。その後、函館遺愛女学校教員をつとめる。
 1888東京英和女学校教員(のち校長)の本多庸一(同墓)の後妻となる。四男二女をもうけるが二男一女は早世。 庸一は1895同校を青山女学院とし経営と教学にあたるが、ていは夫を助けるかたわら潮田千勢子、矢島楫子(3-1-1-20)らと親交を結び、基督教婦人矯風会では幹部、副会頭として長年尽力した。 1902から『婦人新報』の編集人と発行印刷人を兼ねている。1912庸一が没すると九段教会の伝道者となり伝道に徒事。1923(T12)関東大震災後は渋谷の清和女塾に居を定める。70歳で死没。

<日本女性人名辞典など>


墓所

*正面墓石に「本多庸一之墓」。裏面には生没年月日が刻む。墓所右側に「本多家之墓」、墓誌が並ぶ。「本多家之墓」の墓石の裏面は墓誌となっており、右から順番に、庸一の後妻で婦人運動家として活動した本多てい、七男の鐘七(M32-M40)、三女の しつ(M28-M44)、四男で山形美以教会牧師を務めた愛雄(M22-T7)、六男の為六(M30-T8)、二郎の妻の滋子(M13-M41)、二郎の長女のハナ(T7-S17)、二郎の長男の太郎(M44-S20)の続柄・俗名・生没年月日が刻む。 「本多家之墓」の右隣になる墓誌には、右から、次男で本多家の当主を務めた本多二郎(M12-S33)、五男で母ていの姉の嗣子となり長嶺家を継ぎ、外務官僚や教育者として活躍した長嶺直哉(M27-S51)、当才で亡くなった本多淑、長嶺直哉とマリア・フリアとの間の娘の AMELIA SHIDZU NAGAMINES(英語表記で刻む)、二郎の姪の元子、元子の夫で東北学院大学工学部教授を務め、『本多庸一とその家族』などを執筆した本多繁が刻む。 なお、本多家は二郎の息子太郎が早死したため、二郎の姪の元子と夫の繁が養子となり跡を継いだ。

*本多庸一・てい の五男の直哉は、てい の姉のゲンの嗣子となり長嶺を継ぐ。

*ていの妹のヨシは外交官の杉村濬に嫁ぎ、子の杉村陽太郎は外交官、杉村欣次郎は数学者となり、娘は化学者の柴田雄次に嫁ぎ、その子が作曲家・音楽学者の柴田南雄。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・は行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。