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えびな みや

海老名美屋

えびな みや

1862.11.6(文久2)〜1952.3.4(昭和27)

明治・大正期のキリスト教
の婦人活動者、組合教会牧師

埋葬場所: 12区 1種 7側 18番

 熊本県出身。海老名弾正の妻。旧姓は横井。父は幕末維新期の政治家であった横井小楠。母つせ子は矢嶋家の出で、竹崎順子、矢嶋楫子(3-1-1-20)らは姉妹。 徳富一敬(淇水)は叔父で徳富蘇峰(6-1-8-13)はいとこになる。
 1869(M2)父の小楠暗殺後、熊本に転居し、熊本洋学校.ジェーンズの妻から英語を学び、75徳富(湯浅)初子(7-1-15)と共に洋学校編入を許される。 この時、洋学校生徒の海老名弾正は女子が男子と一緒に学習することに抗議し、ジェーンズにたしなめられた。 76兄の横井時雄や海老名ら洋学校生徒がキリスト教へ入信を宣言、洋学校閉校後、時雄と東京に遊学。翌77京都に移って同志社に入学、女学校に在籍して男子学生のクラスで授業を受けた。 同年新島襄から受洗。82兄の勧めで海老名と結婚、群馬県安中、東京、熊本、京都、神戸と夫の任地に従い、夫を助けて宣教に励む。 この間、矢嶋楫子の日本基督教婦人矯風会設立や竹崎順子の熊本女学校創設に協力。また同志社女学校の舎監を務めたこともある。 97から夫が本郷(弓町本郷)教会(12-1-26)牧師として東京で活躍した20年余は、婦人の活動に従事し、1909には安井てつ(15-1-10-7)らと雑誌『新女界』を刊行、家庭・教育・結婚などに関して執筆、キリスト教徒の立場から女性の自覚を説いた。 夫の朝鮮伝道、北米日系人啓発運動に従い、18(T7)には夫と共に欧米に赴き、またピッツバーグの世界キリスト教徒大会で日本婦人代表として講演。20同志社総長となった夫と共に京都に移った。 37(S12)年の夫の死後も、キリスト教連合会婦人会会長などを務めた。

<日本キリスト教歴史大辞典など>
<MATSU様より情報提供>


父親横井小楠政治家・思想家京都南禅寺塔頭の天授庵
横井時雄基督教指導者京都南禅寺塔頭の天授庵
海老名弾正基督教指導者多磨霊園(12-1-7-18)
長男海老名一雄作家・出版人多磨霊園(12-1-7-18)
長女海老名みち音楽家多磨霊園(12-1-7-18)
二女大下あや大下某に嫁ぐ調査中
次男海老名雄二著述家多磨霊園(12-1-7-18)
母方兄姉竹崎順子女性教育者熊本市高橋町の独鈷山
矢島楫子女子教育者多磨霊園(3-1-1-20)
徳富一敬(淇水)漢学者・教育者多磨霊園(6-1-8-13)
親戚(順子の夫)竹崎茶堂教育者・弾正の師熊本市高橋町の独鈷山
従兄妹(一敬の子)徳富蘇峰(猪一郎)評論家多磨霊園(6-1-8-13)
徳富蘆花小説家世田谷区:蘆花恒春園
湯浅初子社会事業家多磨霊園(7-1-15)
初子の夫湯浅治郎基督教指導者多磨霊園(7-1-15)
初子の息子(5男)湯浅八郎理学博士調査中
小楠の甥横井大平熊本洋学校設立者谷中天王寺
(甲8号17側9・11番)
小楠の甥、
大平の兄
横井左平太元老院書記官谷中天王寺
(甲8号17側9・11番)
左平太の妻横井玉子女子美大の創立者谷中天王寺
(甲8号17側9・11番)
本郷(弓町本郷)教会会員墓地弾正の碑が建つ多磨霊園(12-1-26)

<徳永洋様(横井小楠顕彰会会員)より情報提供>


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