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まつい しげる

松井 茂

まつい しげる

1866.9.27(慶応2)〜 1945.9.9(昭和20)

明治・大正・昭和期の内務官僚(警察消防)、知事

埋葬場所: 12区 1種 17側

 広島県広島市猿楽町出身。士族の松井有隣(同墓)の長男として生まれる。1893(M26)東京帝国大学法科大学独法科卒業。 卒業後も法科大学研究科にて専ら警察法を研究。同年内務省に入省し、警視庁試補となる。
 1895四谷警察署長、ついで香川県警察部長、警保局警務課長、警視庁第二部長兼任内務書記官、兼任で消防署長、警視総監官房主事などを経て、1905警視庁第一部長となり日比谷焼打事件の鎮圧の指揮をとる。 この間、1900道路取締規程作成より道路交通法の左側通行を導入。1901から渡米し、警察・消防を視察。 これにより、救助はしご車の輸入、救急自動車の導入に尽力。1907韓国総監府理事官、韓国警務局長、統監府参与官を歴任。 植民地警察機構の整備をはかり対韓政策に尽力。1910韓国政府より勲一等に叙せられ八卦章賜与。同年法学博士。
 石原健三(1-1-2)の後を継ぎ、1911.5.16(M44)第14代静岡県知事に就任〔任期:1911.5.16〜1913.3.3(M44〜T2)、在任:1年10ヶ月〕。 静岡県知事時代は、元来の学究肌から、管内を視察するに当たっては、研究熱心に微細な点までおろそかにしなかったという。 1913.3.3(T2)山本内閣成立後、石原健三の後を継ぎ、第16代愛知県知事を任ぜられた〔任期:1913.3.3〜1919.4.18、在任:6年1ヶ月〕。後任知事は宮尾瞬次(8-1-17-2)。
 1918警察講習所創設に携わり、翌年所長に就任、警察官の訓育の指導を行う。1920勲一等瑞宝章授章。1924警察講習所の顧問。1934(S9)貴族院議員。 その後は、大礼使事務官、警察協会副会長、消防協会副会長、警察共済組合審査会議長、中央社会事業協会理事、社団法人赤十字社理事、皇民会長、国民精神総動員中央連盟理事、大日本警防協会副会長、内務省防空局参与など、多くの要職に就く。
 警察法の立法に努め、日本に於ける警察と消防行政の基礎を築いた戦前の代表的な警察・消防官僚である。 主な著書に、『日本警察要論』『欧米警察視察談』『警察の本領』『各国警察制度』『各国警察制度沿革史』『自治と警察』『独逸消防の近況と所感』『警察の根本問題』『国民消防』『警察読本』『消防精神』がある。 正4位。享年80歳。築地本願寺で警察消防葬が営まれた。

<日本歴代知事事典>
<現代日本朝日人物事典など>


墓所 碑

*正面墓石は2基。右が「松井茂 妻貞之墓」。左が「松井家之墓」。墓所左側は墓誌が建ち、戒名は長生院殿釈警堂淡水居士。墓所右側には松井茂の碑が建つ。 この碑は松井茂先生自傳刊行會の委員長である丸山鶴吉が碑文を書し、昭和二十七年九月九日と刻む(没七年後に建之されたことになる。なお、この年に『松井茂自傳』が刊行された)。碑文は松井茂の略歴が刻む。


【日比谷焼打事件】
 1905.9.5(M38)東京日比谷公園で河野広中、大竹貫一、小川平吉らの主催で日露講和条約破棄・戦争継続・政府弾該のスローガンで開かれようとした講和反対国民大会が政府の弾圧で解散させられるや、群衆は内相官邸、警視庁、警察、国民新聞社、交番等を襲撃し、事件は大阪、神戸、名古屋、横浜等へも波及した。 政府は軍隊を出動させて2000人を捕えてこれを鎮圧した。ポーツマス講和条約の貧しい結果をみて日露戦争の犠牲となった国民の不満が爆発したものであった。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上、うち有罪87名。
 国民は日清戦争の勝利により、戦勝国は多額の賠償金を獲得できるという認識があり、日露戦争後のポーツマス条約でもそれを期待していたが、結果は樺太の南半分の割譲、日本の大韓帝国に対する指導権の優位、賠償金なしでの調印に対して反発したものである。 しかし、実際は、東郷平八郎(7-特-1-1)のバルチック艦隊撃破などの勝利とは裏腹に、日本には戦争を継続するだけの余力はなく早期解決が真実であった。 ロシア側も血の日曜日事件など革命運動が激化しており戦争継続が困難であった。実は日本にとってロシアの内紛は救いであったほどである。 なお、日露戦争の戦場は全て満州南部と朝鮮半島北部であり、ロシア領内は日本に攻撃されていない。日本側の全権交渉人としての小村寿太郎の判断と決断は、後に国民にも評価されることとなった。

<日本史小辞典など>


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