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こやま ぜんたろう

小山善太郎

こやま ぜんたろう

1863(文久3.2.28)〜 1940(昭和15)

明治・大正・昭和期の貿易相、血液循環療法始祖

埋葬場所: 5区 1種 1側 5番

 岡山県浅口郡玉島町上成出身。紋平の5男。赤穂義士の大石良雄の養父である良昭の弟の小山良秀の養子の源五左衛門良師より出づ。善太郎はその八世の孫にあたる。
 神戸に出て貿易商を営み、花莚(はなむしろ:イ(藺)を染めて織った絵文様のある莚)および参稈真田(=麦稈真田:ばっかんさなだ:麦わらを平たくつぶし真田紐のように編んだもの。麦わら帽子)の輸出を奨励し、1895(M28)農商務大臣の榎本武楊に海外商業視察習員派遣の議をもち、政府はすぐにこれを容認した。 斯種、海外派遣嚆矢となす。1900農商務大臣の平田東助より海外商業視察員に嘱託され南洋豪州に派遣された。 視察中、産業貿易の振興の重要性を痛感し、帰朝後、その封策を建言した。北海道に赴き、魚類鑵詰(缶詰)および経木真田(きょうぎさなだ:経木を細く切って真田紐のように編んだもの。夏帽子)の輸出を奨励し、売上が年々一千万円に達するほど成功した。
 しかし、雪中苦寒の中、東奔西走したことにより、強度の神経痛および僂麻質斯(リューマチ)を患い、四肢の自由を失う。 東京帝国大学の青山胤通博士の診察をうけるが病源が明らかにならず、薬も試すが回復せず、発症から二年間は右手が全く動かなくなった。
 自らが病根研究をはじめ、高尾山に籠って断食修業をしているときに、大木にツタが絡みついて木が枯れているのを見て、天の啓示を感じ、「人の体も何らかの病根が血液の流れを遮断して病気になるのではないだろうか、それならばこの病根を指で押圧して血流を回復させてやれば病気は治るはずだ。」と、種病源は脂肪凝結に在ることを発見し、1910進んで血液循環療法を創見した。 動かなかった両手の指頭の滞礙を解くなどの療法を確認した。以後、同じ病で苦しむ多くの患者を診療した。

<小山善太郎碑より解読など>


墓所 血液循環療法始祖小山先生壽碑 天地一指

*墓石は和型「小山家之墓」。左側に「血液循環療法始祖小山先生壽碑」が建つ。碑石の上部には徳富蘇峰(6-1-8-13)の篆額で「天地一指」と刻み、上記に記した内容が刻む。この碑は血液循環療法創見25年の昭和9年5月5日に門弟子諸氏により建立されたもので、撰は関藤碩衛。なお、徳富蘇峰が血液循環療法を毎日新聞に紹介する記事を書いたことがきっかけで世間に広まったという縁がある。

*夫人との間に3男5女を儲けた。長男の小山冨士夫(同墓)は陶芸家で、世界的な中国陶磁器研究家である。冨士夫の長男で孫は陶芸家の小山岑一(同墓)。


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