岡山県浅口郡玉島町上成出身。紋平の5男。赤穂義士の大石良雄の養父である良昭の弟の小山良秀の養子の源五左衛門良師より出づ。善太郎はその八世の孫にあたる。
神戸に出て貿易商を営み、花莚(はなむしろ:イ(藺)を染めて織った絵文様のある莚)および参稈真田(=麦稈真田:ばっかんさなだ:麦わらを平たくつぶし真田紐のように編んだもの。麦わら帽子)の輸出を奨励し、1895(M28)農商務大臣の榎本武楊に海外商業視察習員派遣の議をもち、政府はすぐにこれを容認した。
斯種、海外派遣嚆矢となす。1900農商務大臣の平田東助より海外商業視察員に嘱託され南洋豪州に派遣された。
視察中、産業貿易の振興の重要性を痛感し、帰朝後、その封策を建言した。北海道に赴き、魚類鑵詰(缶詰)および経木真田(きょうぎさなだ:経木を細く切って真田紐のように編んだもの。夏帽子)の輸出を奨励し、売上が年々一千万円に達するほど成功した。
しかし、雪中苦寒の中、東奔西走したことにより、強度の神経痛および僂麻質斯(リューマチ)を患い、四肢の自由を失う。
東京帝国大学の青山胤通博士の診察をうけるが病源が明らかにならず、薬も試すが回復せず、発症から二年間は右手が全く動かなくなった。
自らが病根研究をはじめ、高尾山に籠って断食修業をしているときに、大木にツタが絡みついて木が枯れているのを見て、天の啓示を感じ、「人の体も何らかの病根が血液の流れを遮断して病気になるのではないだろうか、それならばこの病根を指で押圧して血流を回復させてやれば病気は治るはずだ。」と、種病源は脂肪凝結に在ることを発見し、1910進んで血液循環療法を創見した。
動かなかった両手の指頭の滞礙を解くなどの療法を確認した。以後、同じ病で苦しむ多くの患者を診療した。