メイン » » » 中澤眞二
なかざわ しんじ

中澤眞二

なかざわ しんじ

1892(明治25)〜 1997.8.28(平成9)

大正・昭和期の実業家

埋葬場所: 5区 1種 8側

 山梨県東山梨郡加納岩村(山梨市)下神内川出身。徳兵衛・いちの次男。父の中澤徳兵衛は下神内川の豪農で、甲府・日下部教会を中心にキリスト教の布教を行いつつ民俗研究を行った人物。 兄の中澤毅一は水産資源の研究の日本的権威である生物学者。
 日川中学校在学中の16歳の時にキリスト教に入信した。在京中は本郷教会に所属し、海老名弾正(12-1-7-18)や植村正久(1-1-1-8)の知遇をえた。旧制第一高等学校に入る。 一高時代の寮である向が丘寮の同室に、菊池寛(14-1-6-1)や後に日鉄常務となる橋本芳雄がいた。東京帝国大学工学部電気工学科に進学。大学では与謝野晶子(11-1-10-14)の実兄である鳳秀太郎に師事。 卒業論文は「発電・送電の運転供給の継続」。卒業後、東京電灯(東京電力)に入社。郷里山梨の笛吹川第一発電所を始め、東日本各地の水力発電所建設に携わった。
 尾瀬沼に発電用のダムを建設する計画に対して、綿密な降水量「計算」に基づく反論を展開し中止に追い込んだ。これにより、尾瀬の自然景観が今日まで保存されることとなった。100歳を超えても、登山やスキー、ゴルフ、木彫に挑んだ。享年105歳。
 妻は五百子(同墓)。2男3女を儲ける。長男の敬一郎(同墓)は9歳で天逝。次男の透(同墓)が家督を継いだ。長女は喜美子(品川姓)、次女は智子(中原姓)、三女は保子(森田姓)。 兄の毅一の子で甥の中澤厚は日本共産党所属の市議会議員で民俗学者。厚の子は宗教哲学者の中澤新一。同じく兄の毅一の子で甥の中澤護人は共産党員として活動する一方で民俗研究者としても活躍をした。

<「水底の翳・中澤護人」八田政季>


*墓石は洋型「中澤家之墓」(右筆)。墓石の裏面が墓誌となっており、俗名、没年月日、享年が刻む。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。