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はっとり きんたろう

服部金太郎

はっとり きんたろう

1860(万延1.10.9)〜 1934.3.1(昭和9)

明治・大正・昭和期の実業家(セイコーの礎)

埋葬場所: 6区 1種 1側 10番

 東京出身。銀座にほど近い采女(うねめ)町で古物商「尾張屋」を営んでいた服部喜三郎と春子(共に同墓)の長男。一人息子として生まれる。雅号は杜渓(とけい)。 近所の寺小屋「青雲堂」で漢籍、習字、ソロバンなどを学んだ後、1872(M5)12歳で同じ近所の洋品雑貨問屋「辻屋」に丁稚奉公にあがった。 奉公先のすぐ近くの時計業の老舗「小林時計店」に強い印象を受ける。辻屋と同じ物品販売業でも、時計業は販売の利益だけではなく、時計の修繕料も得ることができる。 そこで、時計の修繕業から始めて開業資金を貯め、時計商になろうと決心した。
 14歳の時に日本橋の「亀田時計店」、二年後に上野の「坂田時計店」にて初歩的な修理技術を従弟として学ぶ。しかし、同店が一年後に倒産し職を失う。 この時、坂田時計店で貯めた金七円を、そのまま倒産した主人に贈ったという。1877(M10)采女町の実家に戻り、「服部時計修繕所」を開業。 自宅で時計修繕をする傍ら、南伝馬町の「桜井時計店」でも職工として働く。1881(M14)21歳の時に自宅近くにて「服部時計店」を創立。 質流れや道具屋に出た古時計を買い、それを修繕し右から左へ売る商売方法で繁盛した。ところが、1883貰い火を受けて全焼。 落胆するも、貯金があったため、銀座松坂屋裏に新店舗を出す。この頃より、時計修理から販売へと経営方針を転換した。
 1884以降、横浜の外国人商館から洋時計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことが斬新な品揃えとして評判が立つようになった。 1891会頭を渋沢栄一が務めた東京商業会議所が設立され、東京時計商工業組合議員から、ただ一人会員として推挙された。
 当時わが国の時計製造業は輸入に頼っており、時計製造に乗り出すことにためらいがあった。1887頃から機械技術家の吉川鶴彦に技師長への就任承諾を得て、時計製造を実行に移していく。 1892春、金太郎と吉川は旧幕以来、仏具や家具製造が盛んで、時計生産が活発であった名古屋の掛時計工場を視察。帰京後、5月に本所石原町のガラス工場を買い取り、製造工場・精工舎を設立。 アメリカ製品をモデルにボンボン時計の製造を始めた。周辺職工郡に頼らず、熟練工の養成に自ら力を入れる工場経営が優れた。 工場敷地内に寄宿舎を設立し、5年から7年の年限で徒弟学校として機能させた(1918廃止)。七年制の生徒は一人の熟練工に一対一で技術を学び、五年制の生徒は養成部に入り一人の熟練工が数名の生徒に秘術を現場で修得させた。 精工舎は明治末年まで大学卒業などの高学歴の技術者を雇わず、現場からの叩き上げを重視していた。
 1893精工舎を人家が多い石原町から本所区(墨田区)柳島町に移転。数棟の木造建物を建て、蒸気機関を据え付けた。従来の掛時計に加えて、懐中時計ケース製造にも着手。 1894精工舎は創業二年半にして、職工男子が152人、女性が21人、機関五万力、時計製出高2万4千個、同価額5万6千円(『東京府統計書』)と大所帯に発展。 同年、銀座4丁目の角地の朝野(ちょうや)新聞の社屋を買収・増改築し、高さ16メートルの初代時計塔つきビルを完成させた(現在のは1932に完成した二代目である)。 また、最初の懐中時計である22型タイムキーパー製造にも成功させ、清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。 1899〜1900の6ヶ月間、アメリカのウォルサムやエルヂン、ドイツ・フランス・スイスなどの時計業を単身で視察。'06吉川技師長を伴い、再度欧米視察した。 '07これまで海外製であった帝国大学、陸・海軍大学の「恩腸の時計」に12型懐中時計エキセレントが指定され、大増産が始まり、精工舎にとって飛躍の年となった。 飛躍の年は更に東京勧業博覧会に各種時計を139個出品。精工舎は創業13年目にして男工580人、女工120人、製出価額54万2千円(『精工舎史話』)にまで成長。
 '13(T2)12型7石入りの腕時計ローレルの製作に成功。これは国産初の腕時計である。腕時計は製造に難しく、懐中時計が一日200個できたのに対し、ローレルは30個であった。 第一次世界大戦の勃発を予想し、スウェーデンから大量の鋼材を、アメリカから特殊摩鉄線類数ヵ年分を輸入しておき、大戦になると、ドイツ製時計の輸出が止まり、精工舎に英仏から90万個の目覚まし時計の注文があった。 これにより、大量生産化が確立した。'17精工舎は男工1402人、女工258人、製出価額146万5310円と創業23年で職工は約10倍、出荷額は約26倍に達す。 服部時計店の事業拡大で個人商店としての限界が出、資本金500万円(翌年は1000万円に増資)の株式会社とした。'20国内時計のシェア70%を占めるまでに発展。 '23関東大震災により、精工舎は全焼、服部邸も倒壊し従業員全員を解雇せざるを得ない状況となった。 災害を免れた金太郎は、個人出資の日米自動車(1918設立された米製自動車輸入を扱う会社)に営業所を移し、被災一ヵ月半後には輸入時計の卸売りを再開。 同時期に仮工場も焼け跡に設立し半年後には生産を始めた。年末には従業員300名までに回復させ、新製品9型腕時計セイコーを発売。更に震災前に修理のために預かっていた1500個の各種時計を亡失していたが、同程度の新品で返済した。
 '30(S5)金太郎は古希を記念して私財300万円(現在の30億円に相当)を投じ、学術奨励を目的とする財団法人服部報公会を創立(死去の年も故人の意志で300万円追加)。 この会の助成を受けノーベル賞を受賞した湯川秀樹など、時計研究以外の分野の研究者にも補助している(現在も報公会助成は続けられている)。他にも赤十字社をはじめ各種社会事業に貢献した。
 「一人一業主義」を守り、終始時計事業に専念した。矢野恒太が第一生命保険相互会社を設立(1902)した際に、金太郎は取締役となったが、役員報酬を一切受け取らなかったという。 矢野は金太郎没後に二十数年分の報酬にあたる額を服部報公会に渡したとされる。精工舎では技術を吉川鶴彦、金太郎は販売に徹するという役割分担が明確であった。 金太郎の名言として『急ぐな、休むな』が有名である。正5位 勲2等。享年73歳。

<実録創業者列伝>
<コンサイス日本人名事典>


服部家之墓

*服部家の墓所は入って右に折れると正面に「服部金太郎墓」が建つ。戒名は正道院社渓日信居士。妻は服部まん。金太郎の墓を正面にして左手側に「服部家之墓」、隣りに墓誌がある。 墓誌には父の服部喜三郎、母の服部春子(墓誌には「はる」)、早死した服部英介、2代目社長の服部玄三、玄三の妻の服部英子、玄三の長男で4代目社長の服部謙太郎、謙太郎の妻の服部桂子が刻む。 なお、3代目社長で世界のセイコーに躍進させた金太郎の次男の服部正次は鎌倉霊園に眠る。よって、正次の長男でセイコーエプソム社長を務めた服部一郎も鎌倉霊園である。

*2代目社長の服部玄三の次男で4代目社長の服部謙太郎の弟である、5代目社長の服部禮次郎はご健在で、現在は名誉会長(2010年現在)。 現在のセイコー社長は服部謙太郎の次男の服部真二(2010年現在:10代目)。


【服部家】(クリックで拡大)

服部家 家系図


【セイコー歴代社長】
創業者服部金太郎社長在任期間:1881〜1934
2代目服部玄三社長在任期間:1934〜1946
3代目服部正次社長在任期間:1946〜1974
4代目服部謙太郎社長在任期間:1974
5代目服部禮次郎社長在任期間:1974〜1987 *その後、9代目までは会長として権限を持ち続け、10代目から名誉会長。
6代目吉村司郎
7代目関本昌弘
8代目井上仲七
9代目村野晃一
10代目服部真二社長在任期間:2010〜


服部 まん はっとり まん
1863(文久3.12.15)〜1935.3.13(昭和10)
服部金太郎の妻
 上野国高崎の山本兼重郎の娘。幼児から学問を好む。小学校教師を務め、1885(M18)服部時計店創業者の服部金太郎と結婚。 以来、夫と家業を助け、雇人の面倒を見、男女14人の子供を教育しながら、銀座に店を出すまでに発展させる。享年73歳。

<日本女性人名辞典>


服部金太郎翁記念碑、近景 服部金太郎翁記念碑、全景

*バス通り沿い6区に「服部金太郎翁記念碑」が建つ。



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