東京出身。第3代社長の服部正次の長男。東京大学法学部卒業後、1954(S29)第二精工舎に入社。
入社した年の10月からスイスのチューリッヒ大学へ留学、後に米国のエール大学に留学した。
'61帰国後、29歳に若さで第二精工舎取締役就任。'65常務取締役、'67専務取締役、'79第二精工舎社長に就任した。
事業の国際化と多角化を牽引。'68〜'70年代にかけてのアジアへの工場進出を推進し、時計事業の国際化を図る。
そのため、'80兼務で、諏訪精工舎社長にも就任し、腕時計製造会社から今の業態へ変化を遂げさせた。
また諏訪精工舎をセイコーエプソンに名前を変更し、初代社長となる。セイコーエプソンではグローバル販売ネットワークの整備とアメリカ・ヨーロッパでの消費地生産をリードした。
川奈ホテルゴルフ場でプレイ中に死去。国際派経営者として将来を嘱望されていたが、志半ば、55歳の若さで急逝した。従4位勲2等瑞宝章。
*多磨霊園の服部家の墓所には、曽祖父の服部喜三郎、曾祖母の服部春子、祖父の服部金太郎、祖母の服部まん、伯父の服部玄三らが眠る。父の服部正次と一郎の墓は鎌倉霊園にある。「歴史が眠る多磨霊園」ではセイコーの歴史を語る上で外せない人物であると評し、掲載をすることにした。
*服部金太郎と妻の まん(山本兼十郎の長女)の間に4男11女を儲けている。長男は玄三(同墓)。長女のぶ(M16生)は日銀文書局長の清水賢一郎に嫁いだ。二女なを(M19生)は宮城県知事を務めた牛塚虎太郎に嫁いだ。三女セキ(M23生)は龍居頼三の二男、龍居豊に嫁いだ(豊の兄の龍居松之助は著名な造園家)。四女ゆき(M24生)は医学博士の松山陸郎に嫁いだ。五女せい(M25生)。六女かう(M28生)は杉村米次郎に嫁いだ。七女貞子(M29生)は紀長伸銅所社長の河田源蔵に嫁いだ。八女まさ(M30生)は日本活字鋳造監査役の中原繁之助に嫁いだ。九女登志(M31生)。二男は正次。十女好子(M34生)は農林省官吏の吉田清二に嫁いだ。三男は武三郎は服部時計店取締役や監査役を務めた。四男の英介(1903-1909.2.23(M43)は早死で同墓に眠る。十一女秀子(M40生)は民事訴訟法学者の仁井田益太郎(23-1-1)の二男の東洋製作所常務を務めた仁井田甲斐(23-1-1)に嫁いだ。
*3代目社長で世界のセイコーに躍進させた金太郎の次男の服部正次は鎌倉霊園に眠る。よって、正次の長男でセイコーエプソム社長を務めた服部一郎も鎌倉霊園である。なお、正次の次男の のぼる(高+欠)はセイコーエプソン特別顧問、妻は女優の鰐淵晴子。三男の靖夫はセイコーエプソン副会長を務めた。
*2代目社長の服部玄三の次男で4代目社長の服部謙太郎の弟である、5代目社長の服部禮次郎(1921.1.11-2013.1.22)は墓誌に刻みはない。なお禮次郎の妻はヴァイオリニストの服部豊子、息子はヴァイオリニスト・指揮者の服部譲二。譲二の妻の悦子の伯母は御木本隆三の妻。
*2代目社長の服部玄三の三男の服部成三郎は三光起業取締役を務めた。
*4代目社長の服部謙太郎の妻の桂子は、日本放送協会(NHK)会長などを務めた実業家の永田清(1-1-1)の長女。二人の間に、長男でセイコーインスツル名誉会長の服部純市、次男で10代目社長を務めた服部真二(後に禮次郎の養子)、三男の秀生は盛岡セイコー工業会長。