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むらの しろう

村野四郎

むらの しろう

1901.10.7(明治34)〜 1975.3.2(昭和50)

昭和期の詩人

埋葬場所: 8区 1種 14側

 東京北多摩群多磨村上染屋(府中市白糸台)出身。俳人の村野儀右衛門の4男として生まれる。次兄は北原白秋(10-1-2-6)門下の歌人の村野次郎、三兄は西条八十の詩誌の同人の村野三郎。
 文学的環境に恵まれていたことから、府立第二中学校(都立立川高校)卒業の年に中央文学俳句欄に投稿し、一等に入選。選者であった萩原井泉水に激賞されて層雲社に入った。1923(T12)慶應義塾大学に入学した後、各種の詩誌と関係を持ちながら詩作を重ね、新しい詩的思考による知的作風を樹立した。卒業後は理研コンツェルンに勤務。ドイツ近代詩の影響を受け、感傷を表さない客観的な美をつくり出した。
 '26処女詩集『罠』を刊行。その後「旗魚」「文学」「新即物性文学」「詩法」などの詩誌により、20世紀西欧文学に学びつつ実験的作品を発表。モダニズムの代表的詩人として知られた。'39『体操詩集』では、スポーツを題材にした詩にベルリンオリンピックの写真を組み合わせた斬新さと新鮮な感覚が注目を浴びた。戦後も「GALA」「季節」「無限」などの詩誌を創刊した。
 詩集、詩論、随筆、児童書、作詞を多く発表しており、国語の教科書に取り上げられることが多い『鹿』は代表作の一つ。卒業式の定番曲として知られる『巣立ちの歌』(1965)の作詞や、アウグスト・ハインリヒ・ホフマンの詩を日本語詩にした「ぶんぶんぶん」は有名である。
 '60.1(S35)詩集『亡羊記』は読売文学賞を受け、日本現代詩人会の会長として後身の指導育成に活躍した。晩年はパーキンソン病に悩まされ、間質性肺炎を併発し逝去。享年73歳。亡くなった3月2日は亡羊忌となっている。多磨霊園のそばで生まれ育ち武蔵野を愛した詩人であった。

<コンサイス日本人名事典>
<多摩の人物史>


墓所

*村野家墓域の入口の階段をのぼり左手に墓石が建つ。墓石正面には「明徳院文修雅道居士」とあり、村野四郎の戒名を刻み、中段石に「村野」とある。 左面には「昭和五十一年三月 村野晃一 建之」と刻む。墓石右側、道沿いに向かって墓誌が建ち、村野四郎の名を確認することができる。

*村野四郎の妻の村野ムツ(1909-2006 97歳歿)も同墓に眠る。長男の村野晃一は9代目セイコー社長を務めた人物。なおセイコーの祖の服部金太郎(6-1-1-10)は多磨霊園に眠る。 村野晃一は父の四郎の生い立ちを著した『飢えた孔雀 父、村野四郎』(2000)を刊行している。

*2003(H15)村野四郎記念館が府中市郷土の森博物館(東京都府中市南町6-32)の旧府中尋常高等小学校内に設けられた。


『鹿』
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして


『ぶんぶんぶん』
ぶんぶんぶん はちが とぶ
お池の まわりに
野ばらが さいたよ
ぶんぶんぶん はちが とぶ

ぶんぶんぶん はちが とぶ
あさつゆ きらきら
野ばらが ゆれるよ
ぶんぶんぶん はちが とぶ



第94回 多磨霊園のそばで生まれ育った詩人 村野四郎 お墓ツアー
ぶんぶんぶん はちがとぶ


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