東京銀座出身。セイコー創業者の服部金太郎・まん夫妻の次男として生まれる。兄は2代目の服部玄三。
1924(T13)慶応義塾大学経済学部卒業。同年、服部時計店に入店。'29(S4)29歳の時に服部時計店取締役に就任。'37第二精工舎設立とともに専務取締役に就任した。
'46(S21)2代目社長で兄の服部玄三の公職追放による引退により、服部時計店の第3代目取締役社長に就任。
製造会社である第二精工舎、諏訪精工舎、精工舎の各取締役会長を兼任しながら戦後の時計産業の復興・発展に尽力した。
'47小売部門を分離し、株式会社和光を設立。'48以降没年まで日本時計協会理事長をつとめる。'49東京証券取引所上場。
'51.9.1日本最初のラジオコマーシャルとして中部日本放送にて精工舎の午前7時の時報を放送。
'53.8.28日本最初のテレビコマーシャルとして精工舎の時報を放映。'59 株式会社第二精工舎の諏訪工場を分離独立させ、株式会社諏訪精工舎(現在のセイコーエプソン株式会社)とする。
'64東京オリンピック公式計時を担当。'69世界初のクオーツウオッチ発売。'72札幌オリンピックで公式計時を担当した。
そのほか日経連常任理事、経団連理事、日本クロノメーター検定協会評議員会会長、東京ロータリー倶楽部会長などを歴任。
'62藍綬褒章受章。セイコーを世界に躍進させた功労者として活躍した。享年74歳。長男の服部一郎は初代セイコーエプソン社長。
*多磨霊園の服部家の墓所には、祖父の服部喜三郎、祖母の服部春子、父の服部金太郎、母の服部まん、兄の服部玄三らが眠る。服部正次の墓は鎌倉霊園にあり、子の服部一郎もそこに眠る。「歴史が眠る多磨霊園」ではセイコーの歴史を語る上で外せない人物であると評し、掲載をすることにした。
*服部金太郎と妻の まん(山本兼十郎の長女)の間に4男11女を儲けている。長男は玄三(同墓)。長女のぶ(M16生)は日銀文書局長の清水賢一郎に嫁いだ。二女なを(M19生)は宮城県知事を務めた牛塚虎太郎に嫁いだ。三女セキ(M23生)は龍居頼三の二男、龍居豊に嫁いだ(豊の兄の龍居松之助は著名な造園家)。四女ゆき(M24生)は医学博士の松山陸郎に嫁いだ。五女せい(M25生)。六女かう(M28生)は杉村米次郎に嫁いだ。七女貞子(M29生)は紀長伸銅所社長の河田源蔵に嫁いだ。八女まさ(M30生)は日本活字鋳造監査役の中原繁之助に嫁いだ。九女登志(M31生)。二男は正次。十女好子(M34生)は農林省官吏の吉田清二に嫁いだ。三男は武三郎は服部時計店取締役や監査役を務めた。四男の英介(1903-1909.2.23(M43)は早死で同墓に眠る。十一女秀子(M40生)は民事訴訟法学者の仁井田益太郎(23-1-1)の二男の東洋製作所常務を務めた仁井田甲斐(23-1-1)に嫁いだ。
*3代目社長で世界のセイコーに躍進させた金太郎の次男の服部正次は鎌倉霊園に眠る。よって、正次の長男でセイコーエプソム社長を務めた服部一郎も鎌倉霊園である。なお、正次の次男の のぼる(高+欠)はセイコーエプソン特別顧問、妻は女優の鰐淵晴子。三男の靖夫はセイコーエプソン副会長を務めた。
*2代目社長の服部玄三の次男で4代目社長の服部謙太郎の弟である、5代目社長の服部禮次郎(1921.1.11-2013.1.22)は墓誌に刻みはない。なお禮次郎の妻はヴァイオリニストの服部豊子、息子はヴァイオリニスト・指揮者の服部譲二。譲二の妻の悦子の伯母は御木本隆三の妻。
*2代目社長の服部玄三の三男の服部成三郎は三光起業取締役を務めた。
*4代目社長の服部謙太郎の妻の桂子は、日本放送協会(NHK)会長などを務めた実業家の永田清(1-1-1)の長女。二人の間に、長男でセイコーインスツル名誉会長の服部純市、次男で10代目社長を務めた服部真二(後に禮次郎の養子)、三男の秀生は盛岡セイコー工業会長。