京都府与謝郡弓木村出身。横浜で生糸商をしていた三谷宗兵衛の長男として生まれる。異父兄に小説家・劇作家の長谷川伸。異母姉は教育者の三谷民子(同墓)。弟は外交官・侍従長の三谷隆信(同墓)。民子の影響でクリスチャンになる。
父の事業破綻により、第一高等学校在学中より住み込みの家庭教師として自活。この頃、新渡戸稲造(7-1-5-11)の感化を受け、一高で哲学を教えていた岩元禎を師事。東京帝国大学在学中、塚本虎二(8-1-6)・藤井武(14-1-7-43)・黒崎幸吉らと共に内村鑑三(8-1-16-29)に師事し、無教会主義者となる。1915(T4)大学を卒業し、法制とドイツ語教授として第六高等学校に赴任。'18 家督を継ぐ。'24 病で長女と妻を相次いで失う。'26 六高を辞して上京。千駄ヶ谷教会の長老となる。
'27(S2)より第一高等学校教授となる。その他、静岡高等学校などの旧制高等学校、中央大学、女子学院、東京女子大学でも教えた。母校の東京帝国大学から教授就任の打診を数度受けるも断り、'42 病で辞するまで第一高等学校で法制とドイツ語を担当した。高潔な人格によって学生を感化した。神学・宗教・倫理・哲学に関心をもち、アウグスティヌス研究でも知られ、〈日本のヒウティ〉とよばれた。
著書は多数あり、『信仰の論理』(1926)、『国家哲学』(1929)、『問題の所在』(1929)、『法律哲学原理』(1935)、『アウグスチヌス』(1937)、『幸福論』(1944)、『知識・信仰・道徳』(1948)、『法と国家』(1949)などの著書がある。従4位 勲5等。享年55歳。没後、『三谷隆正全集』全5巻(1965-66)、南原繁(3-2-11-2)らが『三谷隆正一人・思想・信仰』(1966)を出版した。
<コンサイス日本人名事典> <小学館日本大百科全書> <ブリタニカ国際大百科事典など>
*洋型の墓石全面は「主にありて 死のぶ 死人の 幸福なり」と刻む。右面には、先祖代々1991.11丹後岩滝町弓木より改葬。左面には三谷氏。裏面は墓誌となっており隆信、隆正、民子の名前と生歿年月日が刻む。
*実母はコウ。コウの最初の夫は長谷川寅之助で、二人の男子を産んでいる。長谷川日出太郎と長谷川伸二郎であり、長谷川伸二郎は長谷川伸(1884-1963:品川区の高福院)という名で小説家、劇作家として活躍した人物。コウは夫の暴力や放蕩が原因で離別。コウはその後、京都の三谷宗兵衛と再婚。宗兵衛の最初の妻の子に教育者の三谷民子がいる。コウは3番目の妻として、隆正、隆信、妙子、田鶴子、捨子を産んだ。よって、長谷川伸は異父兄であり、民子は異母姉、隆信とは兄弟である。なお妹の妙子は聖書学者の山谷省吾に嫁ぐ(共に11区1種16側17番:信濃町教会員墓)、田鶴子は東京府知事を務めた川西実三に嫁ぐ、捨子は医学博士の湯澤健児に嫁ぐ。
*弟の隆信の妻である李枝子の父は政治家の長尾半平(6-1-5-8)。二人の子どもで甥姪にあたる長男の三谷信は銀行家、三島由紀夫(10-1-13-32)の親友。長女の邦子は三島由紀夫の初恋の女性で「仮面の告白」の園子のモデル、銀行家の永井邦夫に嫁いだ。二女の道子は外務官僚の浅尾新一郎に嫁ぎ、政治家の浅尾慶一郎を産む。三女の正子は上皇后美智子の学友で、鮎川義介(10-1-7-1)の長男の鮎川弥一に嫁ぎ、鮎川純太を産んだ。
*洋型の墓石全面は「主にありて 死のぶ 死人の 幸福なり」と刻む。右面には、先祖代々1991.11丹後岩滝町弓木より改葬。左面には三谷氏。裏面は墓誌となっており隆信、隆正、民子の名前と生歿年月日が刻む。
*隆信の子の三谷信(1925.3.4〜2000.7.5)(同墓)は日本興業銀行・興和不動産監査役などを務めた。
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