岡山県出身。8歳の時に母が急性肺結核で病死。母の病死から3か月後、重いチフスに罹り高熱が二週間続き命が危険な状態に陥るも奇跡的に助かった。
勉学が得意で岡山では秀才の誉れ高く期待され、東京帝国大学法科に入学したが周りは秀才ばかりであり成績が悪かった。当初は立身出世という亡霊に憑りつかれ、がむしゃらに勉強をしていたが、友人との成績の比較で優越感に浸ったり、または劣等感に陥ったりという感情に振り回され疲れ切り挫折。学生時代は劣等感の塊となり、立身出世の官吏への道を諦め落ち込んでいた時に、植村正久(1-1-1-8)が牧会する富士見教会に導かれ、4か月後に洗礼を受けた。
それまで人前で主張をしたり、意見を言うことができない臆病者であったが、キリスト教入信後は自信が持てるようになりイエスとノーをはっきり言えるように変化したと回想している。またこの変化をキリストに与えられた「余裕」と表現した。
東京帝国大学法科卒業後、教育者の道に進む。第四高等学校教授、第三高等学校教授で経制経済を講じた。京都帝国大学講師となり聖書学を講義。1937(S12)「パウロの神学」で京都帝国大学より文学博士。パウロ神学の研究を専門とした。総じて宗教史学派の立場に立つ。
'42〜'46 室町教会の牧師を務め、'46〜'51 高倉徳太郎(同墓)が創立した信濃町教会の3代目牧師を務めた。'51 日本聖書協会の新約聖書改訳委員として口語訳聖書の翻訳に貢献し完成させた。'55 東京神学大学教授で新約聖書神学を講じる。'75 東北学院大学教授となり後進の育成につとめた。またこの間、駒沢教会、豊島岡教会の牧師を兼ねた。
キリスト教に関する著書を多数刊行している。処女作は『パウロのピリピ書』(1921)。長崎次郎(同墓)の長崎書店から『新約聖書・新訳と解釈 第1巻』(1930-48)、『パウロ神学に於ける「主」礼拝の問題』(1936)、『パウロの神学』(1936)、『法制経済講義案』(1940)がある。長崎書店が新教出版社に変わった後も『新日本建設の原理』(1945)、『新約聖書解題』(1948)、『基督教の起源』(1957-59)、『古代世界とキリスト教』(1963)、『ローマ人への手紙 パウロ書簡・新訳と解釈』(1967)、『パウロの手紙講話』(1967)、『ガラテヤ人への手紙・テサロニケ人への手紙 パウロ書簡・新訳と解釈』(1972)、『エペソ・ピリピ・コロサイ・ピレモン パウロ書簡・新訳と解釈』(1975)。他の出版社からも多数出しており『パウロ』(1942)、『アガペー キリスト教の愛』(1948)、『聖書入門』(1950)、『新約聖書の理解』(1954)、『新約聖書神学』(1966)、『新約聖書辞典』(1968)、自伝『渓流 激動期のわが半生』(1980)などがある。共著や翻訳も多数刊行している。正4位 勲4等。享年93歳。
<講談社日本人名大辞典> <平凡社世界大百科事典> <日本キリスト教歴史大辞典> <自伝『渓流』> <著者プロフィール> <長谷川伸と「瞼(まぶた)の母」> <人事興信録など>
【日本基督教団信濃町教会】
1924.6.1(T13)東京市大久保百人町(東京都新宿区百人町)の高倉徳太郎自宅にて、25人の信徒が最初の礼拝を捧げて誕生。高倉徳太郎は、礼拝で精魂を傾けて聖書の言葉を説いたので、多くの青年が集まったため、発展する形で戸山教会を設立。富士見町教会での後継争いが起こり、高山を追って戸山教会に100名近くに信徒が転籍をしたため、会員数が一挙に増えてしまい、麹町の家政学院講堂などで礼拝を捧げることになった。その間、土地を現在地の信濃町に求め、'30.9 新会堂を建設、それまでの戸山教会を信濃町教会と改称し現在に至る。
〔歴代主任牧師〕
初 代 : 高倉徳太郎(1924-1934)
第2代 : 福田正俊 (1934-1941)
第3代 : 山谷省吾 (1945-1951)
第4代 : 福田正俊 (1951-1974)
第5代 : 池田 伯 (1973-1991)
第6代 : 佐藤司郎 (1991-1998)
第7代 : 南 吉衛 (1998-2007)
第8代 : 笠原義久 (2008-現任)*2021現在
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