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ますとみ やすざえもん

桝富安左衛門

ますとみ やすざえもん

1880(明治13)〜 1934.11.6(昭和9)

明治・大正・昭和期の教育家(韓国の恩人)、
朝鮮伝道者

埋葬場所: 11区 1種 16側 17番
(信濃町教会員墓)

 福岡県出身。1905(M38)韓国南部の全羅北道高敞(コチャン)郡で農場経営を始めた。全羅北道は穀倉地帯であり、手始めに80万坪から始め、最盛期は6000万坪までに拡大していく。'10 妻の照子の影響で植村正久(1-1-1-8)から受洗。
 農場からの収益を活用し、'12 キリスト信仰に基づく初等教育の学校(興徳学堂=小学校)を創立した。同年、韓国でのキリスト教の伝道は韓国人によって韓国人のためにすべきだと考え、三人の韓国人若者に奨学金を出し、自分自身も一緒に神戸神学校に入学した。卒業後、'17(T6)富安教会を建て、共に学んだキム・ヨングを初代牧師にさせ、自身も伝道者として牧会した。
 '18 中等教育の学校(吾山高等学校:高敞高等学校の前身)も設立し初代校長となる。日帝時代でハングル教育が削られていく中において、この学校では「民族精神を守る」ことを主としてハングル教育がなされた。人種を問題とするのではなく、あくまでも信仰をもとにした同化教育を勧めた。日韓併合に反対し独立運動をして退学処分を受けた韓国人生徒にも門戸を開き受入れた。学校の評判はキリスト信仰と民族主義の学校として韓国中に知られるようになる。
 また信仰雑誌「聖書之研鑽」を刊行。植村正久や高倉徳太郎(同墓)らの寄稿を仰ぎ掲載した。後に「福音と時代」と改題し高倉徳太郎が引き継ぐことになる。なお高倉が創立した戸山教会(信濃町教会)設立に桝富も深く関わったとされる。
 韓国を愛し、韓国の独立を見通し、そのために韓国の人々の精神啓発に一生を捧げながら、その理想を実現するための農場経営も辞めずに継続した。農業で経済を豊かにするため、先例としてデンマーク農業をお手本とした。そして農場からの収益を学校経営や教会運営に充てた。なお学堂での教育は無償であった。享年54歳。
 '70 没後、地域発展に貢献したと評価され、創立した高敞高等学校に桝富の業績を称える記念碑が建てられた。'94(H6)ソウルの永世教会で桝富の没後六十周年記念追悼礼拝が盛大に挙行された。改めて桝富の姿勢が再評価され、「韓国の恩人」「朝鮮のために尽くした日本人」と称えられ、卒業生たちが韓国国会に桝富の業績を文章として提出。'95.12 無私の愛と真実を遺したと桝富は高く評価され、韓国政府(金泳三大統領)より国民勲章牡丹章が追贈された。

<『知られざる懸け橋-枡富安左衛門と韓国とその時代』(著:黒瀬悦成)>


墓所 墓所 墓所
墓誌 右 墓誌 右側 (*クリックで拡大)
墓誌 中央 墓誌 中央(*クリックで拡大)
墓誌 左 墓誌 左側(*クリックで拡大)

*墓石正面「信濃町教會員墓」。左側に墓誌が三基建つ。桝富安左衛門は一番墓石側の右の64人の名と没年月日が刻む墓誌の上の段の右から二番目「桝富安左衛門 一九三四 十一 六」と刻む。妻の照子は同じ右の墓誌の上の段の左から五番目「桝富照子 一九七二 十二 十七」と刻む。照子は佐佐木信綱の門弟であり歌人としても活動。歌集を6冊出している。他に『樫の木のもと』(1958)を刊行。娘の石井武子が『母枡富照子 日記と追想』(1977)、『一粒の麦、地に落ちて死なずば 追想 桝富照子』を刊行。

*「信濃町教會員墓」には、創立者で牧師の高倉徳太郎、新教出版社初代社長の長崎次郎、3代目信濃町教会牧師で聖書学者の山谷省吾、心理学者の細木照敏、作家の仲町貞子(井上奥津)、詩人の石原吉郎(以上・右の墓誌に刻む)、教育者の仁藤友雄、2代目・4代目信濃町教会牧師の福田正俊、物理有機化学者の高橋詢(以上・真ん中の墓誌に刻む)、建築家で建築学者の外山義、神学者で文芸評論家の井上良雄、宗教学者で哲学者の宮本武之助、キリスト教学者の小川圭治、「福音と世界」編集長の森平太(森岡巌)(以上・左の墓誌に刻む)らも同墓に眠る。


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