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とやま ただし

外山 義

とやま ただし

1950.4.22(昭和25)〜 2002.11.9(平成14)

昭和・平成期の建築家、建築学者、
老人福祉建築設計者

埋葬場所: 11区 1種 16側 17番
(信濃町教会員墓)

 岡山県出身。父方の曽祖父は銀行家・政治家の外山脩造。母方の父は信濃町教会創立者の高倉徳太郎(同墓)。画家から牧師となった外山五郎、光子(共に同墓)の長男として生まれる。伯父に牧師の高倉徹(同墓)。
 父が蕃山町教会(岡山市北区蕃山町)の牧師をしているときに誕生。5歳の時に房総の九十九里教会に転勤となり一家で移り、以降は千葉県で幼少期を過ごした。
 東北大学工学部建築学科卒業。母校の先輩で国立公衆衛生院社会保障室長の前田信雄との縁で、スウェーデンの社会保険省の実力者であったグンナール・ヴェンストームを紹介される。当時の日本は「これから」訪れる高齢社会が課題であり、「すでに」経験したスウェーデンから学び協力を求めていた。
 1982(S57)スウェーデンに行き、スウェーデン王立工科大学に留学(〜1989)。論文『Identity and Milieu』で Ph.D(博士号)を取得(Milieu=フランス語で「環境」)。高齢者のアイデンティティーはどう脅かされ、どのように自己を取り戻していくか。克明なデータを駆使して分析したこの論文は、国際的に高い評価を得た。
 高齢者の住環境をテーマとした着眼の原点は子ども時代にあるという。義は牧師の子として教会に通ってくるお年寄りに可愛がられて育った。そこで出会ったお年寄りは、人生の四季でいえば秋の実りのような豊かな人々だった。ところが、大学時代に訪れた養護老人ホームで出会ったお年寄りは8畳間に4人が寝起きし、お迎えがくるのを待っているだけとつぶやいている状況だった。この違いを作り出す施設とはなんだろうという疑問が、高齢者施設に強い関心をもつきっかけになったと回想している。そして、「空間の貧しさは、そのまま行動の貧しに直結しやすいのです」とも述べている。
 帰国後、厚生省の病院管理研究所(後の国立医療 病院管理研究所)の主任研究官として高齢者のケアと住環境を研究する。国立医療 病院管理研究所に名称が変わった後は地域医療施設計画研究室室長を務めた。「高齢者の自我同一性と環境−生活拠点移動による環境適応に関する研究」で日本建築学会奨励賞を受賞。
 1996より東北大学大学院工学研究科助教授を兼ねていたが、'98 京都大学大学院工学研究科環境地球工学専攻居住空間学講座教授に就任。一貫して老人福祉の建築設計及び研究を行い、相部屋が基本だった特別養護老人ホームに、「個室」によるユニットケアやグループホームの制度化を推進するなど、高齢者施設の制度改革に尽くした。
 主な著書に『クリッパンの老人たち−スウェーデンの高齢者ケア』(1990)、『ストックホルムの建築』(1991)、『グループホーム読本−痴呆性高齢者ケアの切り札』(2000)、『自宅でない在宅−高齢者の生活空間』(2003:絶筆)がある。
 特別養護老人ホーム、痴呆性高齢者グループホーム、老人保健施設、デイケアセンターなど数多くの施設建設に携わった。2002 福岡県宮若市の有吉病院などを手掛けていたが、同年急逝。享年52歳。同.11.15 葬儀で弔辞を読み上げた厚生労働省大臣官房参事官の山崎史郎は「日本の介護現場を変えるリーダーであり基礎をつくった方だった。すごいハードスケジュールをこなしていたため、少しは休養をとられた方がいいと話しかけた時に『ひどい居住環境にあるお年寄りのことを考えると居ても立ってもいられないのです』と話しておられた」と述べた。
 没3年後、2005 妻の真理が京都にある洋館の1階に「ヘンマ」と名付けた小部屋を二年間借りて、外山義の書籍や研究資料などを展示した空間を開放した。ヘンマ(hemma)とはスウェーデン語で「我が家にいる」という言葉で、くつろいでいただける空間の意味を込めて名付けられた。また父子「外山五郎と義の二人展」の個展が全国にて不定期で開催されている。

<高齢者施設の制度改革に尽くした外山義氏の死を悼む>
<月刊・介護保険情報2006年5月号 第26話・
「魂の器」と"オイルサーディン”と:「ヘンマ」という小部屋>


墓所 墓所 墓所
墓誌 右 墓誌 右側 (*クリックで拡大)
墓誌 中央 墓誌 中央(*クリックで拡大)
墓誌 左 墓誌 左側(*クリックで拡大)

*墓石正面「信濃町教會員墓」。左側に墓誌が三基建つ。外山義は右から3枚目の墓誌(一番左)の上の段の右から二番目「外山 義 二〇〇二 十一 九」と刻む。義の母で高倉徳太郎の長女の光子は義と同じ墓誌の下の段の右から四番目「外山光子 二〇十一 七 十四」と刻む。義の父で光子の夫の外山五郎は墓誌の刻みが見当たらない。

*「信濃町教會員墓」には、創立者で牧師の高倉徳太郎、高倉を支え「韓国の恩人」と称された教育家の桝富安左衛門、新教出版社初代社長の長崎次郎、3代目信濃町教会牧師で聖書学者の山谷省吾、心理学者の細木照敏、作家の仲町貞子(井上奥津)、詩人の石原吉郎(以上・右の墓誌に刻む)、教育者の仁藤友雄、2代目・4代目信濃町教会牧師の福田正俊、物理有機化学者の高橋詢(以上・真ん中の墓誌に刻む)、神学者で文芸評論家の井上良雄、宗教学者で哲学者の宮本武之助、キリスト教学者の小川圭治、「福音と世界」編集長の森平太(森岡巌)(以上・左の墓誌に刻む)らも同墓に眠る。


外山五郎 とやま ごろう
1908(明治41)〜 1988(昭和63)
昭和期の画家、牧師
 祖父の外山寅太(のち外山脩造)は新潟出身の長岡藩士。維新後に慶應義塾に入り大蔵省銀行科に入省。日本銀行大阪支店長、大阪貯蓄銀行副頭取などを務め、後に政治家。父の外山秋作は大阪殖林合資会社勤務。兄の外山卯三郎は画家で美術評論家。
 1921(T10)青山学院中学部入学。ボヘミアン生活にあこがれアナーキズムに傾倒。大岡昇平(7-2-13-22)とは学生時代からの友人。立教大学へ進むがコカイン中毒にかかり、風景画を描きながらフルートを演奏する気ままで奔放な生活をつづけていた。
 早稲田大学で開かれたロシア語講習会に参加した際に小説家の林芙美子と知り合う。林芙美子は既に結婚している人妻(夫は手塚緑敏)であったが親しく付き合うようになる。関係性を解消することも理由の一つであると思うが、'31(S6)絵画を本格的に学ぶためにパリへ遊学。洋画家の別府貫一郎らとパリ近郊に住んだ。林芙美子には何も伝えず、友人たちにも口止めをしていたが、事実を知り林芙美子はシベリア鉄道経由でパリまで追いかけてきた。林芙美子は別府貫一郎を激しく問い詰め白状させ戸山五郎のもとへ会いに行くが、五郎はストーブにかかっていたヤカンを投げつけ「不快此上なかつた」と日記(1931.12.18付)に書き幻滅している。なお林芙美子が戸山五郎に会いに行くためにパリに行くことを夫の手塚緑敏は知っており、捨てられるだけだと忠告もしていた(本人回想録)。追い出された林芙美子はパリで考古学者の森本六爾や他数名と会い、ロンドンに赴き、'32.6 帰国。この間、旅先から紀行文を雑誌社に送り続けていた。
 '32 帰国。同年から日本神学校で学び牧師になる決意をした。画家を諦め心を入れ替えて進学の道を志していたこの時期に、信濃町教会の高倉徳太郎の娘の光子と結婚した(一男一女を儲け、長男は建築家、建築学者、老人福祉建築設計者の外山義)。
 牧師になってからは、蕃山町教会(岡山市北区蕃山町)に派遣された後、'55より房総の九十九里教会牧師になった。緑内障で眼が不自由になる中でも絵は描き続けていたという。没後、親族が主催し「外山五郎と義の二人展」の個展が不定期で開催されている。


※妻と息子は信濃町教会員墓の墓誌に名が刻むが、外山五郎の名の刻みが見当たらない。この地に埋葬された可能性は高いが調査中。おわかりの方がいましたらご一報ください。

*外山家の正墓は、外山脩造も眠る大阪市設南霊園(4区)の墓所である。脩造没後の外山家は長男の外山秋作ではなく、3男の外山捨造(大阪の実業家)が家督を継いでいるため、五郎の父の秋作は分家して東京に出ている。


 


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