メイン » » » 長崎次郎
ながさき じろう

長崎次郎

ながさき じろう

1895.8.30(明治28)〜 1954.10.2(昭和29)

昭和期の出版人

埋葬場所: 11区 1種 16側 17番
(信濃町教会員墓)

 高知県安芸郡安芸町(安芸市)出身。長崎文之助、栄の二男として生まれる。兄は美術教育家の長崎太郎(1892-1969)。号は雑草生。
 百島操牧師の助言で、安芸中学校を卒業後、1913(T2)東北帝国大学農科大学(北海道帝国大学農学部)に入学し植物学を専攻する。'16 日本基督札幌教会で当時の北辰教会牧師であった高倉徳太郎(同墓)から洗礼を受ける。'21 北海道帝国大学農学部卒業。横浜共立学園、関東学院中学校の教員となる。
 '25 教師を辞して、早稲田で古本屋長崎書店を開業した。'26 高倉徳太郎の説教集『恩寵と召命』、'27(S2)高倉の代表的著作になる『福音的基督教』を出版する。これを機に『高倉全集』など高倉作品の他、柏井園やピーター・フォーサイス、カール・バルトなどの神学書や聖書注釈書などのキリスト教の関連本を多く刊行し、キリスト教出版の地位の向上に大きく貢献した。'34 月刊誌「葡萄之枝」を10年間発行した。'38 医師である小川正子がハンセン病在宅患者の収容に赴き、その状況を著した『小鳥の春 ある女医の手記』を出版しベストセラーになった。
 '43 有限会社になる。しかし、'44 戦時企業整理令により、プロテスタント系出版社の10社(長崎書店、新生堂、日曜世界社、日本聖書協会、教文館出版部、基督教思想叢書刊行会、愛之事業社、警醒社、一粒社、基督教出版社)が統合され、新教出版社が創立されると初代社長に就任した。長崎書店は創業から統合までの18年間に約200のキリスト教書籍を刊行した。戦後もキリスト教出版界を指導した。がんのため逝去。享年59歳。

<高知県人名事典>
<日本キリスト教歴史大事典>


墓所 墓所 墓所
墓誌 右 墓誌 右側 (*クリックで拡大)
墓誌 中央 墓誌 中央(*クリックで拡大)
墓誌 左 墓誌 左側(*クリックで拡大)

*墓石正面「信濃町教會員墓」。左側に墓誌が三基建つ。長崎次郎は一番墓石側の右の64人の名と没年月日が刻む墓誌の上の段の右から17番目に「長崎次郎 一九五四 一〇 ニ」と刻む。

*「信濃町教會員墓」には、創立者で牧師の高倉徳太郎、高倉を支え「韓国の恩人」と称された教育家の桝富安左衛門、3代目信濃町教会牧師で聖書学者の山谷省吾、心理学者の細木照敏、作家の仲町貞子(井上奥津)、詩人の石原吉郎(以上・右の墓誌に刻む)、教育者の仁藤友雄、2代目・4代目信濃町教会牧師の福田正俊、物理有機化学者の高橋詢(以上・真ん中の墓誌に刻む)、建築家で建築学者の外山義、神学者で文芸評論家の井上良雄、宗教学者で哲学者の宮本武之助、キリスト教学者の小川圭治、「福音と世界」編集長の森平太(森岡巌)(以上・左の墓誌に刻む)らも同墓に眠る。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。