高知県出身。旧制中学時代の15歳の時に郷里の高知教会で植村正久(1-1-1-8)の弟子であった多田素(ただ しらし)牧師から受洗。
慶応義塾大学経済学部に進学し、小泉信三(3-1-17-3)から良き感化を受け、小泉信三の写真を書斎に飾るほど影響を受けた。高倉徳太郎(同墓)の戸山教会で目指していた福音的教会に感銘し、徳太郎の下で学ぶ。またカール・バルトにも学び、後にカール・バルト研究者としても著名。説教の可能性を誠実に問い続け、人間主義、主観主義、実用主義の信仰を徹底して排した。
'30 戸山教会は信濃町教会へ移行。'34 高倉徳太郎急死を受けて後を継ぎ、2代目信濃町教会牧師に就任した。時代はやがて日中戦争から太平洋戦争へと進み、教会は厳しい試練の中に置かれた。'41 キリスト教の諸教派が合同して日本基督教団が生まれ、信濃町教会もこれに属することになった。
'42秋から精神的彷徨の時期を過ごしていた気鋭の文芸評論家だった井上良雄(同墓)に寄り添い、'45.3 井上を洗礼した。'45 終戦後、戦争の問題に苦しみ、説教者としての責任を覚えて信濃町教会牧師を辞任。後任の牧師は山谷省吾(同墓)が就任し、山谷は戦争で荒廃した教会の再建に努めた。
戦後は東京神学大学で教会史を教える。'51 山谷牧師が口語訳聖書の翻訳事業に専念するため辞任した際に、'52 再度、信濃町教会牧師への復帰の声が上がり、4代目信濃町教会牧師に就任した。東京で福音に最も恵まれない地域に開拓伝道を行い、板橋区に伝道所(板橋大山教会)を設けた。また東京神学大学の教え子たちの石原謙(後のキリスト教史学者)、佐藤敏夫(後の第3代東京神学大学学長)、熊沢義宣(後の第6代東京神学大学学長)、井上良雄(受洗後は神学者)らが礼拝によく来たそうだ。
'59 プロテスタント日本伝道100年を祝う記念行事で「バアルに膝をかがめぬ7千人」という題の説教をし、お祭りムードになっていることを批判した。'64 『信濃町教会四十年 時の間に』を刊行。シリーズ『日本の説教』を出し、「説教の前提は聖書だけである」との信仰に堅く立ち、戦前戦後と激動する時代とそこに生きる者たちのために、進展する聖書学と真摯な対話を重ね続け、福音の真理を鮮明に告知した。
'73 信濃町教会牧師を辞任。後任に池田伯が就任した。その後は著述活動に専念。主な著書に、『自由なる恵:二つの講演と一つの説教』(1978)、『主の祈り:キリスト教の小さな学校』(1979)、『望みへの勇気』(11981)、『巡礼の旅:ヨーロッパからの贈りもの』(千恵子夫人と共著:1983)『先師の追憶』(1984)、『福田正俊著作集 説教集』(1993)、『福田正俊著作集 神学論集』(1994)、『福田正俊著作集 聖書研究・エッセイ集』(1994)がある。享年95歳。没後、『福田正俊』(池田伯 解説:2006)刊行。
【日本基督教団信濃町教会】
1924.6.1(T13)東京市大久保百人町(東京都新宿区百人町)の高倉徳太郎自宅にて、25人の信徒が最初の礼拝を捧げて誕生。高倉徳太郎は、礼拝で精魂を傾けて聖書の言葉を説いたので、多くの青年が集まったため、発展する形で戸山教会を設立。富士見町教会での後継争いが起こり、高山を追って戸山教会に100名近くに信徒が転籍をしたため、会員数が一挙に増えてしまい、麹町の家政学院講堂などで礼拝を捧げることになった。その間、土地を現在地の信濃町に求め、'30.9 新会堂を建設、それまでの戸山教会を信濃町教会と改称し現在に至る。
〔歴代主任牧師〕
初 代 : 高倉徳太郎(1924-1934)
第2代 : 福田正俊 (1934-1941)
第3代 : 山谷省吾 (1945-1951)
第4代 : 福田正俊 (1951-1974)
第5代 : 池田 伯 (1973-1991)
第6代 : 佐藤司郎 (1991-1998)
第7代 : 南 吉衛 (1998-2007)
第8代 : 笠原義久 (2008-現任)*2021現在
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