但馬国出石(兵庫県豊岡市出石町)出身。出石藩士の植松左武郎、歌子の3女。母は正教会信者となる。1871(M4)廃藩置県の混乱の中で父が没す。以後、寡婦となった母は幼児の香芽子を抱えて惨憺たる困窮の中で奮闘し養育をしていたが、6歳の時に同郷の旧出石藩士・洋学者の加藤正矩の養女となる。旧姓は植松、加藤。加藤正矩の実兄は政治学者の加藤弘之であるため義理伯父。また加藤正矩には後に実の娘の三宅やす子(8-1-16-34)が誕生したため年齢差は24歳の義理の妹にあたる。
1884(M17)19歳の時に東京帝国大学のスクリバの外科学教室の助手を務めていた河本重次郎(同墓)と結婚。加藤正矩が教育者として東京に出た時に偶然、旧豊岡藩士であり河本齋助や中江種造と懇意にしていた知人と再開し、香芽子の縁談の話となった。河本重次郎の叔父の中江種造の判断で、香芽子との縁談は益々進み、両家の間を取り持ち、植松家の親戚筋にも了承を得、二人は結婚に至ったという。この時、重次郎は嫁となる香芽子を一見すらせず結婚が決まった古風な逸話である。
1885.12 外科学から眼科学への転向を命ぜられた夫の重次郎がドイツに留学することになり、その間、養父母とともに盛岡に住む。この時に宣教師 E.R.ミラー夫妻の感化をうけ、1888(M21)盛岡(下ノ橋)教会で三浦徹から受洗した。夫の帰国前の数ヶ月間、明治女学校にも通った。
1889 帰国した夫の重次郎からキリスト教に感化して洗礼までしたことを打ち明けたところ反対されたため、しばらく教会から遠ざかった。1907 約1年間、夫の重次郎がヨーロッパを歴訪し家を空けたタイミングより、植村正久(1-1-1-8)の一番町教会の会員となり、教会婦人会主催の家庭夏期学校に携わるなど積極的に教会活動に尽くし始める。また毎週家庭集会を開き伝道活動を行う。人気があり40名以上も集まることもあったという。夫の帰国後も継続をし、夫も次第に理解を示すようになった。
当時の富士見町教会の学生会員、高倉徳太郎、佐藤繁彦、征矢野晃雄、斎藤勇らが共同生活をしていた山上寮のためにもよく尽した。 植村正久によって日本基督教会婦人伝道会が創設されると理事、のち社長をつとめた。'21(T10)日本基督教会最初の女性長老の一人に選ばれる。
'25.1.8 植村正久が召天した後、富士見町教会で後継者問題が起こり、'27(S2)富士見町教会から高倉徳太郎が立ち上げた戸山教会に約100人が転会する結果となる。その際、香芽子も転会。なお後に戸山教会は名称を信濃町教会にかえている(1930.9)。転会後は、戸山教会、信濃町教会の長老を務めた。
<日本キリスト教歴史大事典> <日本女性人名辞典> <20世紀日本人名事典> <MATSU様より情報提供> <ご子孫様より情報提供>
*墓石前面「河本重次郎 / 夫人 香芽子 墓」、左面に「昭和十三年十二月四日建之」、裏面は「東京帝国大学名誉教授 河本重次郎 安政六年八月十五日 於 但馬豊岡生 昭和十三年四月四日 於 伊豆熱海歿」と刻む。隣りに「妻 香芽子 慶應二(一八六六)年七月十三日 昭和三十一(一九五六)年二月三十日 於 東京歿」と刻む。
*墓所左側に洋型「河本家墓」が建つ。左面「昭和十三年十二月四日建之」。裏面は墓誌となっており、重次郎の長男の河本重雄(M24.1.16歿・行年2才)から刻み、雪(S55.4.29歿・行年81才)、純一(S55.8.15歿・行年59才)、いつか(1989.12.19歿・行年8才)、幸子(2009.7.27歿・行年85才)が刻む。
第369回 日本の近代眼科の始まりはこの人物から「日本近代眼科の父」 河本重次郎 お墓ツアー 妻はキリスト教伝道家 河本香芽子
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