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たかくら とくたろう

高倉徳太郎

たかくら とくたろう

1885.4.23(明治18)〜 1934.4.3(昭和9)

明治・大正・昭和期の基督教伝道者
(信濃町教会創立者)

埋葬場所: 11区 1種 16側 17番
(信濃町教会員墓)

 京都府何鹿郡綾部町字南西町出身。養蚕業を営んでいた高倉平兵衛、さよ の子として生まれる。5歳の時に父の平兵衛がキリスト教を信仰したことや仕事が多忙であったことなどから、母のさよが家を出て離別。継母によって養育を受けた。
 1906(M39)四高を卒業。西田幾多郎の三々塾でも学んだ。東京帝国大学在学中、同.12.23クリスマス礼拝の日に富士見町教会で植村正久(1-1-1-8)から受洗。立身出世の道を捨て牧師になる決意を固め大学を中退して、'08 東京神学社に入り、'10.6 卒業。卒業後は志願兵として入営し、'11.11 除隊。
 除隊後は富士見町教会伝道師となる。'12.5.2 植村の司式により世良専子(同墓)と結婚。世良家は公卿の家柄であったが、専子は東京神学社で聴講しており、校長であった植村より紹介されたご縁であった。同.12.29 按手礼を受ける。
 '18(T7)東京神学社で講師を務め始める。'21 イギリスに留学し、エディンバラ大学、オックスフォード大学で神学を研究。フォーサイスの影響を受けつつ、独自の「福音的基督教」を確立。'24 帰国後、植村の後を継ぎ東京神学社校長に就任。同.6.1 自宅を解放して始めた家庭集会が発展する形で、後の信濃町教会となる戸山教会を創立。多くの青年に深い感化を及ぼした。
 '25.1.8 植村正久が召天した後、富士見町教会で後継者問題が起こる。植村の後継者と目されていた高倉であったが、富士見町教会のブルジョワ的体質を批判していたこともあり高倉の評価が二分。分裂騒動となり、'27(S2)富士見町教会から戸山教会に約100人が転会する結果となった。なお、富士見町教会の2代目牧師は南廉平(20-1-10)が着任している。この時期に高倉徳太郎の説教集『恩寵と召命』(1926)、代表的な著書になる『福音的基督教』(1927)を長崎次郎(同墓)の長崎書店(新教出版社)から出版する。
 '30.9 戸山教会は名称を信濃町教会とした。同年、東京神学社は明治学院神学部と東北学院神学部と合併し日本神学校になり、それに伴い教頭に就任した。この時に校長に就任したのは川添万寿得(15-1-6-27)で、教師に植村正久の3女の植村環(1-1-1-8)らがいた。
 高倉の神学は植村と同様に聖書の無誤性を否定した。ブルンナー、ゴーガルテン、アルトハウス、ハイムらの弁証法神学を福音的信仰と見なし、日本のエキュメニカル派の神学を大きく規定した。教会の純粋性を求めようとし、韓国で伝道や教育を行っていた桝富安左衛門(同墓)の信仰雑誌「聖書之研鑽」を引き継ぎ、改題「福音と現代」として創刊し教会の革新を訴える。教会を主軸として福音的信仰を進展させていき、日本のプロテスタントキリスト教の指導的役割を果たした。
 信濃町教会の牧会、日本のキリスト教会の改革、日本神学校の教育と運営に没頭していたが、多忙を極めていたことで うつ病を発症。昭和6年前後よりうつ状態が始まり、症状の悪化に伴い仕事から身を引くようになり、綾部、伊東、その他に引きこもって病気の治療にあたった。医者からは「神経衰弱」と言われた可能性が高く、複数の医師の診察を受け、東京帝国大学病院内科に入院もしたが、根本的な効果はなかった。
 '34.4.1 長男の高倉徹(同墓)は日本神学校卒業し、この日家族に信仰を告白(牧師の道を決意)した。家族全員で喜びあったという。その2日後(4月3日)の朝、自宅で自殺した。享年48歳。覚悟の自殺であったのか、発作的な自殺であったのか、遺書の存在も公表されなかった上、高倉の死が自殺であったことをもしばらく伏せられていた。信濃町教会長老会も自殺とは公表しなかった。没後、小塩力が『高倉徳太郎伝』を刊行。『高倉徳太郎著作集(全5巻)』もある。

<日本キリスト教総覧>
<日本キリスト教宣教史など>


【牧師が自殺】
 高倉徳太郎の死が自殺であることが明るみになるにつれて、罪を語り救いを語った宗教者が、うつ病という心の病気になり、克服できず、さらには自殺という形で人生を閉じたことは、信者のみならずキリスト教関係者に大きな衝撃を与えた。
 当時はうつ病への認識が薄く偏見もあり、キリスト教界の中には、信仰者が心の病で自殺することは許されないという声や、自殺の行為は非キリスト教的だ、信仰理解に問題があったと非難をした人もいた。一方で自我との戦いは信仰意識をさえ破るまでに大きく深かったと同情する者や、伝道のために心身を摩滅した結果であり、打ち込みもしていない者たちが先生の晩年の病気と死を批判することができようかと擁護する声もあった。'54(S29)死後20年経った春の一夕、信濃町教会において「高倉歿後二十年記念会」が催された。その席で長男の徹が「じつは、父は、縊死(首吊り)をとげたのです」と真相を初めて語り衝撃を与えた。
 遺書があったこともわかり、亡くなる直前まで毎日書き続けていた日記の存在も明るみになった。それを分析した精神医学者の赤星進は見解を発表。 「結局、彼が熱心に説いた贖罪信仰も彼を自殺にまで追いやった罪悪感から彼自身を救い得なかったことになる」と自殺の理由は強い罪悪感のためであったと分析した。その背景は、自らの所属する教団、そして日本のキリスト教を改革する目的で高倉が主導してできあがった福音同志会という若い世代の団体との関係の破綻がうつ病と自殺に関与しているという。
 高倉の信仰への批判は「神のわざとしての信仰」と「自我のわざとしての信仰」の対比に強調される。精神病になった信仰は律法主義的傾向が強く、神の愛は頭ではわかっていても、義なる神を怖れているだけのことが多い。したがって、病的な罪意識にとらわれて悩むことが多いので、そのような人々には神の愛を本当にわからせるように努め、義の神がまた愛の神であることを体得するように牧会することが肝要だったと赤星は見解した。さらに彼の贖罪信仰が彼を罪悪感から救い得なかったのは、彼が意識的には神の恵による贖罪を信じ、その点で多くの人々を鼓舞していたにも拘わらず、無意識には人の情を期待しており、その方が究極的には彼の心理を支配していたためであると考えられると精神分析学的の目線で研究発表をした。
 この赤星の見解に神学者の佐藤敏夫は批判をした。精神分析学の見解の批判ではなく、論拠とする福音同志会との関係、特に時間的関係である。高倉の罪責感については「高倉は罪意識のために死んだのではなく、うつ病にかかったゆえに、特に罪意識に苦しむようになったと見るべきであろうとした。高倉は神学者としては罪を強調したほうであるが、それとこれとは混同すべきではないであろう」という見解を発表している。
 なお、長男の高倉徹は高倉徳太郎の死の二日前に信仰告白をなし同じ牧師の道を歩んだ。その後、日本キリスト教団総幹事、農村神学校校長など、日本のキリスト教指導者のひとりとして活動。引退後は父の作り上げた信濃町教会に通っていた。しかし、69歳の時、父と同じくうつ病になり自殺を遂げた。人間の精神や魂と対峙し、その援助にあたる牧師・僧侶などの宗教者もまた人間のひとりである。

<「うつ病と信仰 : 高倉徳太郎牧師を巡って」大宮司 信>


墓所 墓所 墓所
墓誌 右 墓誌 右側 (*クリックで拡大)
墓誌 中央 墓誌 中央(*クリックで拡大)
墓誌 左 墓誌 左側(*クリックで拡大)

*墓石正面「信濃町教會員墓」。左側に墓誌が三基建つ。高倉徳太郎は一番墓石側の右の64人の名と没年月日が刻む墓誌の上の段の右の一番最初に「高倉徳太郎 一九三四 四 三」と刻む。妻の専子も同じ右の墓誌の上の段の左から六番目「高倉せん 一九七一 一 三〇」と刻む。長男で牧師の高倉徹(1916生)は同じ右の墓誌の下の段の右から十一番目「高倉 徹 一九八六 一 五」と刻む。長女の光子は画家・牧師の外山五郎に嫁ぎ、その長男が老人福祉建築設計者で建築学者の外山義。光子は右から3枚目の墓誌(一番左)の右から四番目「外山光子 二〇十一 七 十四」と刻む。息子(徳太郎の孫)の外山義は右から3枚目の墓誌(一番左)の上の段の右から二番目「外山 義 二〇〇二 十一 九」と刻む。ただし、光子の夫で義の父である外山五郎は墓誌の刻みが見当たらない。

*高倉徹の妻は高倉雪江(1915〜2015.4.28)は佐賀県出身。夫で牧師となった徹は父徳太郎の遺した課題を負い地方教会へ赴任。信徒との出会いから教会観を変革され「戦責告白」を担うに至る。雪江は日本基督教会伝道師として夫と共に歩んだ。大貫教会、大連教会(1941-47)、岩国教会(1949-63)、柏木教会、荻窪教会(1965-72)で奉仕。'84隠退。著書に『共に生きる (高倉徹牧師追悼)』(1987)、『はるかなる遠い日々 高倉徹の周辺』(1992)がある。享年100歳。信濃町教会の墓誌に刻みがない。

*「信濃町教會員墓」には、高倉を支え「韓国の恩人」と称された教育家の桝富安左衛門、新教出版社初代社長の長崎次郎、3代目信濃町教会牧師で聖書学者の山谷省吾、心理学者の細木照敏、作家の仲町貞子(井上奥津)、詩人の石原吉郎(以上・右の墓誌に刻む)、教育者の仁藤友雄、2代目・4代目信濃町教会牧師の福田正俊、物理有機化学者の高橋詢(以上・真ん中の墓誌に刻む)、建築家で建築学者の外山義、神学者で文芸評論家の井上良雄、宗教学者で哲学者の宮本武之助、キリスト教学者の小川圭治、「福音と世界」編集長の森平太(森岡巌)(以上・左の墓誌に刻む)らも同墓に眠る。

*多磨霊園に眠る信濃町教会関係者は、政治家・社会運動家の田川大吉郎(23-1-12-13)は会員。キリスト教伝道者の河本香芽子(9-1-3-8)や出版人で「高倉徳太郎日記」を編集した秋山憲兄(10-1-13)は信濃町教会長老を務めた。


【日本基督教団信濃町教会】
 1924.6.1(T13)東京市大久保百人町(東京都新宿区百人町)の高倉徳太郎自宅にて、25人の信徒が最初の礼拝を捧げて誕生。高倉徳太郎は、礼拝で精魂を傾けて聖書の言葉を説いたので、多くの青年が集まったため、発展する形で戸山教会を設立。富士見町教会での後継争いが起こり、高山を追って戸山教会に100名近くに信徒が転籍をしたため、会員数が一挙に増えてしまい、麹町の家政学院講堂などで礼拝を捧げることになった。その間、土地を現在地の信濃町に求め、'30.9 新会堂を建設、それまでの戸山教会を信濃町教会と改称し現在に至る。

<信濃町教会の歴史>


〔歴代主任牧師〕
初 代 : 高倉徳太郎(1924-1934)
第2代 : 福田正俊 (1934-1941)
第3代 : 山谷省吾 (1945-1951)
第4代 : 福田正俊 (1951-1974)
第5代 : 池田 伯 (1973-1991)
第6代 : 佐藤司郎 (1991-1998)
第7代 : 南 吉衛 (1998-2007)
第8代 : 笠原義久 (2008-現任)*2021現在


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