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かわぞえ ますえ

川添万寿得

かわぞえ ますえ

1870(明治3.10.20)〜 1938.7.11(昭和13)

明治・大正・昭和期のキリスト教牧師、日本神学校長

埋葬場所: 15区 1種 6側 27番

 土佐郡江ノ口村(高知県高知市)出身。土佐藩士の橋本家の二男として生まれる。旧姓は橋本。旧字は萬壽得。叔母の川添家の養子となる。1888(M21)受洗して、高知教会に所属。
 少年時代から苦学力行、神学にも造詣が深かった。1892 片岡健吉に伴われて上京し、明治学院神学部に入学。1896 卒業後直ちに長野県佐久郡の伝道に従事。1897 按手礼を受けた。
 1902 渡米、オーバン神学校に留学し、'05 帰国。東京三田四国町に「みくに伝道会」を興して伝道を行うかたわら、『福音新報』の編集に関与し、植村正久(1-1-1-8)に師事、のちに同社の理事となる。'06 長崎、大阪の両教会を牧す。
 '10 聖書改訳委員に挙げられて上京。ギリシア語の才能を発揮して完成まで7年間その任にあたり『大正改訳聖書』を完成させた。また青山学院、明治学院、東京神学社の講師を務めた。'17(T6)青山教会の牧師となり、東山学院、大阪伝道同志館(大阪神学院)の講師を兼ねた。
 '28(S3)明治学院神学部長を経て、'30 初代 日本神学校校長 兼 教授に就任。この時、高倉徳太郎(川添万寿得退任後に2代目校長になる:11-1-16-17)が教頭、教師に植村正久の3女の植村環(1-1-1-8)らがいた。
 '35 日本基督教会大会議長に選ばれ、満州、朝鮮や国内各地への巡回旅行に精励したが、病を得て、'36 以来療養。'38 青山教会を辞任、同教会名誉牧師となる。
 文筆に優れ、キリスト教関係の新聞・雑誌に所論を寄稿しており、その縁で徳富蘇峰(6-1-8-13)や徳富蘆花とも交友があった。享年67歳。没後、'43『川添万寿得遺稿選集』が刊行された。

<高知県人名事典>
<キリスト教人名辞典>
<日本キリスト教歴史大事典>


墓所

*墓石は和型「川添家之墓」、前面左に「友人 徳富正敬 揮涙書」、裏面「昭和十五年五月十一日 川添大作 建之」と刻む。右面は墓誌となっており、妻の奈み(S42.4.13永眠・行年84才)。長男は川添大作(H7.3.31永眠・行年85才)、大作の妻は初恵(H27.9.6永眠・行年100才)。墓所左側に川添万寿得の略歴が刻む墓誌碑が建つ。墓誌碑の最後は「竹馬之友 原戌吉 誌」と刻む。

*墓石の字を書した徳富正敬は徳富蘇峰のことである。


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