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みなみ れんぺい

南 廉平

みなみ れんぺい

1877(明治10)〜 1926.11.7(大正15)

明治・大正期の牧師、富士見町教会2代目

埋葬場所: 20区 1種 10側

 愛媛県出身。卜部家に生まれる。幼少期に南環(同墓)の養子となる。中学3年生の時に広島日本基督教会で洗礼を受ける。その後、北陸英学校、明治学院普通学部を経て、アメリカに渡り、ヒル・スクール・オーバン神学校で学んだ。
 日清戦争のため帰国し、陸軍に志願して、騎兵将校として出征した。復員後、1895(M28)一番教会(富士見町教会)にて、植村正久(1-1-1-8)の弟子となる。その後、千駄ヶ谷教会、松山教会の牧師を務めた。1911 富士見町教会の副牧師に就任。
 '25.1.8 植村正久が召天した後、富士見町教会で後継者問題が起こる。植村の後継者と目されていた高倉徳太郎(11-1-16-17)であったが、富士見町教会のブルジョワ的体質を批判していたこともあり高倉の評価が二分。分裂騒動となり、南廉平が2代目牧師に就任した。高倉は戸山教会(信濃町教会)に約100人の信者とともに転会した。しかし、翌年、49歳の若さで召天。三吉務が富士見町教会3代目牧師として継いだ。

<キリスト教人名辞典など>


*墓石は洋型「南家」、左面「平成十三年十二月吉日 勇 建之」と、勇からみて「曽祖父 桐山吾助 慶応2.7.25 / 祖父 南環 M37.10.14」が刻む。裏面は墓誌となっている。廉平の行年は50歳と刻む。妻はケイ(S36.11.9・79歳)。長男の隆は4歳、長女の智恵子は2歳で早死。二男の祝は海軍中佐で34歳で戦死。二女の和子は4歳で早死。三男は勇(H23.1.6・98歳)、勇の妻はとみ(H31.1.21・100歳)。四男の剛平は3歳、五男の勝平は4歳、三女の晶子は3歳、四女の道子は当歳と早死。4男4女を儲けたが成人したのは二男の祝と三男の勇のみであり、祝は戦死したため、勇が家督を継ぎ、墓所も整えた。


南 祝 みなみ しゅく
 1909(明治42)〜1942.10.12(昭和17)
 昭和期の海軍軍人(中佐)
 東京出身。牧師の南廉平、ケイ(共に同墓)の二男。1929.3.27(S4)海軍兵学校卒業(57期)し、少尉候補生となる。'30.12.1 少尉に任官し、第18潜水隊付となり、'32.11.15 天霧乗員。同.12.1 中尉に進み、千鳥乗員、'35.2.1 北上分隊長に就任。同.11.15 大尉に進級し、白露水雷長、'36.12.1 暁水雷長、'38.9.20 第5号駆潜艇艤装員長、同.12.6 佐世保防備隊分隊長を歴任し、'39.11.15 阿武隈水雷長に補された。'40.11.15 少佐に昇進し、高雄水雷長に着任。'42.10.12 第6戦隊参謀となり、第二次ソロモン沖海戦のサボ島沖夜戦(エスペランス岬沖海戦)にてソロモン諸島で戦死。功3級。享年33歳。没後1階級特進し最終階級は海軍中佐。

<日本海軍士官総覧>


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