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なかまち さだこ

仲町貞子

なかまち さだこ

1894.3.22(明治27)〜 1966.6.18(昭和41)

昭和期の小説家

埋葬場所: 11区 1種 16側 17番
(信濃町教会員墓)

 長崎県南高来郡大三東村(島原市)出身。旧姓は柴田奥津(しばた おきつ)。本名は井上奥津。宮本のり の筆名もある。医者で熱心な儒教信奉者でもある父と敬虔なプロテスタント信者の母との間に生まれ、両親の深い愛情のもとで育つ。2歳のときに受洗。
 長崎県立高等女学校を卒業。卒業後、1918(T7)医学志望の学生であった浜田弥三郎と結婚。しばらく京都に住み、その後、夫の開業地の別府に移住。1925(T14)別府滞在中の詩人の北川冬彦(23-2-8-10)と知り合い、夫と別れ、北川を追って上京。北川と同棲し、私設の託児所を営む。
 この頃、北川の友人の梶井基次郎と文通する。梶井や武田鱗太郎の勧めもあり、30代後半から創作にも取り組むようになる。「詩と散文」「磁場」「麺麭」などの同人として作品を発表。'36(S11)42歳の時に小説『梅の花』、'37随筆『蓼の花』を出版。底辺の人々を愛情をもってあたたかな目でみつめた作品は人気を博した。
 北川冬彦と同人仲間であった気鋭の文芸評論家として活躍していた井上良雄(同墓)と出会い、井上が治安維持法で逮捕され転向を余儀なくされ精神的彷徨の時期にキリスト教を紹介し支えた。北川と離別した後も井上良雄を支え続け、'35頃から同棲を始め、13歳年上であったが、'38 再婚した。
 結婚を機に執筆活動を停止し、プロテスタントの信仰生活に入った。その後、夫の井上良雄は信濃町教会で受洗し、戦後は神学者として活躍することになる。そこには貞子の影響と内助の功があった。
 詩人の永瀬清子は貞子の人間像を「正直で素直、まるで童女のように純真であり、加えて母性のもつ懐の深いおおらかさとユーモアも同居していた」と証言している。白血病により逝去。享年72歳。没後、1991(H3)『仲町貞子全集』、2004 田中俊廣の著『感性の絵巻 仲町貞子』がある。

<日本女性人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典>
<高橋順次「古書往来」21.よみがえる幻の作家、仲町貞子>


墓所 墓所 墓所
墓誌 右 墓誌 右側 (*クリックで拡大)
墓誌 中央 墓誌 中央(*クリックで拡大)
墓誌 左 墓誌 左側(*クリックで拡大)

*墓石正面「信濃町教會員墓」。左側に墓誌が三基建つ。井上良雄は左の墓誌の上の段右から六番目「井上良雄 ニ〇〇三 六 一〇」と刻む。妻の仲町貞子は本名の井上奥津として、墓よりの右の墓誌の上の段左から十二番目「井上奥津 一九六六 六 十八」と刻む。

*「信濃町教會員墓」には、創立者で牧師の高倉徳太郎、高倉を支え「韓国の恩人」と称された教育家の桝富安左衛門、新教出版社初代社長の長崎次郎、3代目信濃町教会牧師で聖書学者の山谷省吾、心理学者の細木照敏、詩人の石原吉郎(以上・右の墓誌に刻む)、教育者の仁藤友雄、2代目・4代目信濃町教会牧師の福田正俊、物理有機化学者の高橋詢(以上・真ん中の墓誌に刻む)、建築家で建築学者の外山義、宗教学者で哲学者の宮本武之助、キリスト教学者の小川圭治、「福音と世界」編集長の森平太(森岡巌)(以上・左の墓誌に刻む)らも同墓に眠る。


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