長崎県南高来郡大三東村(島原市)出身。旧姓は柴田奥津(しばた おきつ)。本名は井上奥津。宮本のり の筆名もある。医者で熱心な儒教信奉者でもある父と敬虔なプロテスタント信者の母との間に生まれ、両親の深い愛情のもとで育つ。2歳のときに受洗。
長崎県立高等女学校を卒業。卒業後、1918(T7)医学志望の学生であった浜田弥三郎と結婚。しばらく京都に住み、その後、夫の開業地の別府に移住。1925(T14)別府滞在中の詩人の北川冬彦(23-2-8-10)と知り合い、夫と別れ、北川を追って上京。北川と同棲し、私設の託児所を営む。
この頃、北川の友人の梶井基次郎と文通する。梶井や武田鱗太郎の勧めもあり、30代後半から創作にも取り組むようになる。「詩と散文」「磁場」「麺麭」などの同人として作品を発表。'36(S11)42歳の時に小説『梅の花』、'37随筆『蓼の花』を出版。底辺の人々を愛情をもってあたたかな目でみつめた作品は人気を博した。
北川冬彦と同人仲間であった気鋭の文芸評論家として活躍していた井上良雄(同墓)と出会い、井上が治安維持法で逮捕され転向を余儀なくされ精神的彷徨の時期にキリスト教を紹介し支えた。北川と離別した後も井上良雄を支え続け、'35頃から同棲を始め、13歳年上であったが、'38 再婚した。
結婚を機に執筆活動を停止し、プロテスタントの信仰生活に入った。その後、夫の井上良雄は信濃町教会で受洗し、戦後は神学者として活躍することになる。そこには貞子の影響と内助の功があった。
詩人の永瀬清子は貞子の人間像を「正直で素直、まるで童女のように純真であり、加えて母性のもつ懐の深いおおらかさとユーモアも同居していた」と証言している。白血病により逝去。享年72歳。没後、1991(H3)『仲町貞子全集』、2004 田中俊廣の著『感性の絵巻 仲町貞子』がある。