滋賀県大津出身。南満州鉄道に勤務していた田畔勉、フキ(共に同墓)の長男。本名は田畔忠彦(たぐろ ただひこ)。父の仕事の関係で満州で育つ。
旅順中学、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部仏法科に入学。詩の創作を始め、1924.11(T13)安西冬衛らと詩誌「亜」を創刊し、現代詩や新散文詩を発表。'25.1 処女詩集『三半規管喪失』を刊行し、横光利一(4-1-39-16)から賞賛と激励をうける。同.3 仏法科を卒業したが、改めて文学を学ぶため、同大学文学部仏文科に再入学した。同大学の文芸部の「朱門」の同人となる。'26詩集『検温器と花』によって詩人として注目され、新散文詩運動を精力的に展開し、詩壇に刺激を与えた。この頃、仏文科を中退している。
'28(S3)詩雑誌「詩と持論」創刊に参加し、シュルレアリスムの運動を推進した。'29.10詩集『戦争』は昭和詩史を飾る作品といわれ脚光を浴びた。マックス・ジャコブ散文詩集『骰子筒(さいころづつ)』や、アンドレ・ブルトンの『超現実主義詩論』(共に1929)の翻訳紹介もした。
'30「詩と持論」の高踏的な芸術主義を批判して離れ、三好達治らと「詩・現実」を創刊、プロレタリア詩への傾斜を深め、'33『氷』、'36『いやらしい神』に一つの頂点を示した。'41詩集『実験室』刊行。短詩運動、新散文詩運動、シネポエム、ネオリアリスムなど次々と詩壇に問題を提起した。
戦後も「現代詩人会」の結成に尽力し初代幹事長に就任。盛んに詩を発表、'48長編叙事詩『氾濫』も代表作となる。'50ネオリアリズムを提唱し第2次「時間」を主宰して現代詩を改革し続けた。日本の代表的詩人として国際的にも高く評価されている。また詩壇の興隆と新人の育成に努めた。
詩を発表する傍ら、映画評論も書き続け、シナリオ文学の独自性をも標榜した。中心となり「シナリオ研究十人会」を結成し、機関紙「シナリオ研究」を発刊した。詩論集、随筆集なども多く発表し、『悪夢』などの小説作品もある。
'63から東京都立川市に住をかまえ、以後、立川で詩人生活を遂げる。ハスの葉を好み自家栽培をしていた。'80詩『石』が彫られた「青少年に贈る碑」が立川市泉体育館の前庭に建立された。享年89歳。
<コンサイス日本人名事典> <ブリタニカ国際大百科事典> <講談社日本人名大辞典など>
*墓石は和型二基並ぶ。右側墓石は「田畔家之墓」、裏面は「平成五年六月吉日」とあり、左面が墓誌となっている。戒名は文穎院釋冬彦居士。俗名 田畔忠彦、筆名 北川冬彦と刻む。行年は九十歳。妻は田畔多紀で戒名は詩念院釋紀芳大姉。息子の田畔照久の刻みもある。左側墓石は北川冬彦の両親の墓石であり、正面「釋徳浄信士 / 釋尼妙香信女」とあり、左面に「昭和十八年十二月二十日 俗名 田畔勉 行年七十三才」、右面に「昭和十六年十二月八日死亡 俗名 田畔フキ 行年六十四才」と刻む。
*妻の田畔多紀(たぐろ たき)は詩人。北川多喜子の名義で、'58処女詩集『愛』を刊行しH氏賞受賞作にノミネートされた。後に筆名を北川多紀に改名している。
*作家の仲町貞子(1894-1966)は長崎高等女学校を卒業し医師と結婚したが、北川冬彦と知り合い夫と別れ上京し同棲。北川と共に創作活動を行っていた。北川と別れた後は、文芸評論家・神学者の井上良雄(11区1種16側17番:信濃町教会員墓)と再婚した。仲町貞子は本名である井上奥津として井上良雄と同じ信濃町教会員墓に眠る。
【H氏賞事件】
日本現代詩人会が主催する、新人の優れた現代詩の詩人の詩集を広く社会に推奨することを目的とした文学賞「H氏賞」は、共栄産業を興した平澤貞二郎の基金により、1950(S25)に創設された。基金拠出者である平澤が匿名を強く希望したため「H氏」賞となった。
1959(S34)第9回H氏賞の選考過程を巡って事件が起きた。H賞選考のための第一回幹事会が行われる前に、子供の筆跡の怪文書が幹事長の西脇順三郎のもとに送りつけられた。怪文書の内容は、副幹事長の木原孝一が有力候補を単独で絞り通達することは選挙違反ではないかという主旨であった。木原が各選考委員に出したとされる第一回幹事会の案内状には、H氏賞候補にノミネートされた23作品の詩集本の内、吉岡実の詩集「僧侶」、茨木のり子の詩集「見えない配達夫」、安水稔和の詩集「鳥」の三冊を特に有力候補として事前に読むようにと、この三作品から受賞者を選出することを意図する内容が書かれていたことに抗議する怪文書であった。第一回幹事会では怪文書のことには触れずに話し合いがもたれ、「僧侶」が最有力候補とあがった。これに対し、怪文書を知らないメディアは「僧侶」を執筆した吉岡実に取材をするも、本人は「自分は現代詩人会に入りたくないから、H賞の有力候補だそうだが、出来ることなら辞退したい」と語った。
二回目の怪文書は、投書を何故先日の幹事会の席上で読みあげなかったのかという内容であり、木原の醜行為を隠ぺいするためではないかという批判であった。これにより匿名の投書の怪文書は幹事の誰かではないかと推察された。そこで第二回幹事会で西脇は投書された怪文書を読みあげ、木原は悪意はなかったと弁明。弁明に対し幹事内で応答がなかったため、幹事の投票が無記名で行われた。結果、吉岡実の詩集「僧侶」が最多投票で受賞決定した。H賞授賞式では当日まで受諾を保留していた吉岡も周囲の勧めで受賞を受けた。
ところが、今度は「現代詩人会幹事T」という署名の匿名の投書が都下各新聞にバラまかれた。これを受けて朝日新聞東京版のゴシップ欄に木原の選挙違反行為だという内容が掲載された。記事には「怪文書」と称したことも指摘し、現代詩人会の中には選考に対する不満派がいるという主旨が掲載された。
H賞選考の幹事投票は一位「僧侶」、二位「見えない配達夫」、三位「鳥」で、四位に北川冬彦夫人の北川多喜子の「愛」であった。「詩学」6月号で北川多喜子を推薦したのは夫の北川冬彦、幹事の土橋治重、上林猷夫、緒方昇らであった。これにより、怪文書のTは北川冬彦の本名の田畔(たぐろ)のTで、吉岡の受賞に反対し自分の妻を推していたことから、様々な憶測が飛び交った。しかし、現代詩人会の足並みがそろっていない愚行を世間に露呈したくなかったこともあり、現代詩人会は北川らを追及することもなく、うやむやとなった。
結果、この事件を契機に現代詩人会の勢力は急速に後退。草野心平は「詩のことを議論しないで手続きだとかなんだとか、つまらんことばかりあげつらう詩人会なぞ意味がない」と語り、既成詩人の輪もバラバラになっていった。なお、多磨霊園に眠る「H氏賞」受賞者は、第14回受賞者:石原吉郎(11-1-16-17/信濃町教会会員墓)がいる。また第13回受賞した高良留美子の妹の高良美世子ら高良家一族の墓(19-1-13)がある。
【北川冬彦の青少年に贈る碑】(昭和55年建)
立川市泉市民体育館(旧 立川市市民体育館)の前庭に建つ、縦80センチ、横180センチの詩碑。青芝とミカゲ石でデザインされた台座に建つ黒ミカゲの詩碑は、若山牧水の子孫で建築家の若山旅人(立川市在住)によって設計された。立川ロータリークラブの創立20周年を記念したものである。石に思いを託して青少年の人格形成と、他人への愛と努力について語っている。
石
石はつめたい
石はごつごつ角張っている
しかし 石は丸くなるのだ
川底で
互いにぶつかり合って
長い年月の間に
石はあたたかくならないことはない
懐であたためればよいのだ
根気よくあたためればよいのだ
第93回 犯人はあなた? H氏賞事件 日本現代詩人会選考会に怪文書 北川冬彦 お墓ツアー
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