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よこみつ りいち

横光利一

よこみつ りいち

1898.3.17(明治31)〜 1947.12.30(昭和22)

昭和期の小説家

埋葬場所: 4区 1種 39側 16番

 福島県北会津郡出身。鉄道技師の横光梅次郎、小菊の長男として生まれる。岩越鉄道開通工事のために来ていた東山村大字湯本(東山温泉)の赴任先での出生。父は大分県宇佐郡(宇佐市)出身の代々藩の技術担当をしていた名家であるので本籍は大分県。母は三重県阿山郡(伊賀市)出身であり松尾芭蕉の血筋とされる。本名のヨミは利一(としかず)。
 父の仕事の関係で幼少期は、千葉県佐倉、東京赤坂、山梨、広島、滋賀大津など各地を一家は転々とした。1904(M37)滋賀在住の時に大津市尋常小学校に入学したが、'06.6父が朝鮮に赴任するにあたり、母の郷里の三重県阿山郡東拓植村に転校し、'09.5から滋賀県大津市に戻った。母と姉と同地にて過ごすも、父が帰朝し兵庫県に着任したため、'13(T2)からは兵庫に行かずに一人で下宿生活を送った。後に下宿生活の初恋の思い出をもとに『雪解』を発表している。この頃より、夏目漱石、志賀直哉、ドストエフスキーなどを読み文学に興味を抱き、国語教師に文才を認められたことがきっかけで小説家を志すようになった。'16.3校友会会報に「夜の翅」「第五学年修学旅行記」を掲載するなど活動を始める。
 同.4、父の反対を押し切り早稲田大学高等予科に進学。文芸雑誌に小説を投稿し始める。夏休み後、下宿から連れてきた女中が部屋で友人と寝ている現場に遭遇。嫉妬は感じなかったが、以後、女性も友人も信じられなくなったと語り、この女中寝取られ事件は小説『悲しみの代価』で執筆。また同.12.14 初恋の宮田おかつが14歳で急逝した。一連の出来事で神経衰弱となり、'17.1より休学し、父母が住む京都山科に行く。同.7 文壇の登竜門とされる「文章世界」に『神馬』が佳作入選し掲載され、同.10『犯罪』が当選作として「万朝報」に掲載された。この頃に筆名は横光白歩としている。'18.4 英文科の1年生に編入し佐藤一英の詩歌研究会に加わる。この頃は横光左馬という筆名で詩句を発表した。
 '19「新潮」が「菊池寛氏に対する公開状」を募集し、佐藤一英が応募すると入選し、それが機縁で佐藤は菊池寛を訪ねるようになる。菊池は小説を薦めたが、佐藤は詩をつくると述べ、親友に小説家志望がいると、'20横光を菊池寛(14-1-6-1)に紹介した。以後、生涯師事することとなる。
 '21.1「時事新報」に『踊見』を応募し選外一位。大学は政治経済学科に転入するも長期欠席と学費未納のため除籍となった。同.6 同人誌「街」を創刊。この頃、いつでも人から敬称されるとペンネームを横光左馬(さま)とする。菊池寛の邸宅で友だちになると良いと川端康成とご縁を得て終生の友となる。またこの時期、キリスト教に入信したことで、旧約聖書や基督教作家の作品に触れ、その後の自作に影響を与えることになる。'22.2 『南北』が「人間」に掲載される。同.5 同人誌「塔」を創刊し、『面』(後の『笑はれた子』)を掲載。同.8.29 父が赴任先の朝鮮京城にて客死したため渡鮮した。父を亡くしたことで益々経済的に困窮。
 '23.1 菊池寛が「文藝春秋」を創刊し、第二号から菊池の推挙で川端康成と編集同人として参加。同.5 同誌に『蠅』、「新小説」に『日輪』を発表し新進作家の仲間入りを果たした。同.9.1 東京堂で雑誌を立ち読みしている時に関東大震災に遭遇。下宿は倒壊して住む場所を失ったため、友人宅を転々とし裏長屋を借りる。同.11 「文藝春秋」に『震災』を発表。被災した際にニコライ堂から出てきた尼僧が路上に輪をなしてひざまずいて祈りだすのを見て茫然としたことを書き、「私の信じた美に対する信仰は、この不幸のために忽ちにして破壊された」と述べている。
 '24.5 第一創作集『御身』を金星堂より、『日輪』を文藝春秋叢書から刊行。同.10 川端康成らと「文藝時代」を創刊、小説・評論・文芸時評を執筆。プロレタリア文学全盛の中、新しい感覚的表現を主張し新感覚派の代表的作家として活躍。新感覚派は「震後文学」ともいわれた。同.11 雑誌「改造」に『愛巻』を発表。直木三十五の推薦で衣笠貞之助により『日輪』が映画化。しかし、映画は内務省より不敬罪と告訴され上映中止となる。'25北川冬彦(23-2-8-10)の処女詩集「三半規管喪失」を賞賛、激励した。
 '26.3 葉山で妻のキミの看病をしていた横光の自宅に映画監督の衣笠が訪れ、映画製作の相談を受けたことにより、川端康成、片岡鉄兵(19-1-3)、岸田国士(18-1-10-1)、池谷信三郎に声をかけ、新感覚派映画連盟を創立。同年、川端が脚本を手掛け、横光の提案で無字幕とし『狂つた一頁』を製作。
 '27(S2)「文藝春秋」にてモダン都市を新しい感覚で表現したり、モダンガールについて描いた作品が好調である一方、「文芸時代」は廃刊した。'28「新潮」に評論『新感覚派とコンミニズム文学」、「創作月刊」に『文学的唯物論について」を発表したことをきっかけに、蔵原惟人らと形式主義文学論争が起こった。同年、芥川龍之介から上海を見ておかねばいけないと勧められ、約1カ月上海に滞在。『支那游記』を発表。また、上海で感じた西洋列強に支配される身近なアジア、自分の住む惨めな東洋を強く意識させ、民族意識に目覚め、最初の長篇『上海』で新感覚派的手法による野心的実験を発表。'28から書き始め、'31にかけて「改造」に断続的に発表されたが、内務省の検閲を意識した改造社は自主規制し多くの伏字となった。'28.11『新選 横光利一集』刊行。'29.10「文学」を創刊。
 '30町工場の人間模様を実験的な手法で描いた『機械』、最初の新聞小説『寝園』、'34『紋章』で自意識過剰に悩む知識人を心理主義的手法や、四人称の設定によって追求。'35これらの実験をまとめた『純粋小説論』発表。この論の実践として東京と大阪の方言を対比させた新聞小説『家族会議』を書く。
 '36.2.20神戸港から渡欧、同.3.28フランスに着き、パリで現地で活動していた画家の岡本太郎(16-1-17-3)と交流。その後、ヨーロッパ各地を訪問。ベルリンオリンピックを観戦し、同.8.25帰国。この旅の経験をもとに、'37.4より東洋的神秘趣味や心境を示す大作『旅愁』を東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載をしたが、盧溝橋事件の勃発で連載中止となった。
 '38.11より40日間、中国を旅行。'40日本文学者会議の発起人。'41文学者が翼賛運動をする文芸銃後運動の中部地方班に参加。'42.5.26 日本文学報国会が企画運営した大東亜文学会議設立の決議文起草に参加。以後、小説部会幹事長として演説や講演を行う。'45夫人の郷里の山形県鶴岡市に疎開。敗戦後、戦時協力をした文壇の戦犯と名指しで非難を受ける。
 '46.1『旅愁』一篇を改造社から改造社名作選として刊行。翌月に『旅愁』二篇、6月に『旅愁』三篇、7月に『旅愁』四篇を刊行。『旅愁』各巻は10万部も売れベストセラーとなった。『旅愁』は合計30万部売れたが、その印税は封鎖預金で支払われた。封鎖預金は月額300円しか引き出せない仕組みになっており、いくら『旅愁』が売れても生活は窮迫した。
 この頃より吐血があり床に伏せることが多くなる。'47.12疎開時の日記という体裁をとった小説『夜の靴』を刊行。同.12.14 青春時代の柘植での思い出を書いた『洋燈(ランプ)』を執筆中に突然目まいに襲われ、翌日、胃に激痛が起こり胃潰瘍と診断される。一時回復傾向がみられたが、同.12.30 突然急激な腹痛で苦しみだし、潰瘍が腹膜腔に穿孔して急性腹膜炎を併発し逝去。享年49歳。執筆が止まっていた『旅愁』は横光の死によって未完となった。'48.1.3 自宅にて仏式葬儀が行われ、川端康成が弔辞。デスマスク(銅製)は本郷新により作成。死顔のスケッチも佐野繁次郎と岡本太郎により描かれた。同.1 鎌倉文庫の「人間」に『微笑』が掲載され遺作となる。同.4 菊池寛、川端康成、河上徹太郎により「文学界」で「横光利一追悼号」が特集され、改造社から『横光利一全集』が刊行された。'49「横光利一賞」が設定され、大岡昇平(7-2-13-22)『俘虜記』が受賞した。三重県立上野高等学校に同窓会が横光利一記念館を設置。
 戦前(昭和10年代)横光利一は「文学の神様」「小説の神様」と称されていたが、終戦直後より文壇の戦犯として各方面より非難された。'54三島由紀夫(10-1-13-32)と舟橋聖一(3-2-6-3)との対談では、三島が「神さま問題になるけど、横光さんなんかが神さまに思われていた時代というのは読者が今よりばかだったんでしょうかね」と発言し、舟橋は「あのころは一生懸命なら神さまなんだ」と答えた逸話がある。やがて改めて再認識され始め、多くの作家や評論家より横光利一を取り上げ論じられ、井上ひさしは「戦後の文壇が、横光一人に戦争の責任を負いかぶせようとしたのは間違いであった」と語っている。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<横光利一を論じた各書物や年表など>


*墓石正面「横光利一之墓」。書は川端康成。右側に墓誌がある。墓誌は俗名、歿年月日、行年のみである。墓誌には刻まれていないが戒名は「光文院釋雨過居士」。墓誌には前妻のキミ(君子)は刻まれていない。墓誌には利一、後妻の千代、長男の象三が刻む。象三と次男の佑典は父を題材にした書物を多く刊行している。佑典は三井物産に勤め小堀桃子と結婚した。桃子の祖父は森鴎外、父は洋画家の小堀四郎、母は随筆家の小堀杏奴(鴎外の二女:あんぬ)。


【横光利一と家族】
 1924末、横光利一は18歳の小島キミと結婚。仲人役は佐藤一英。横光はキミの兄で同級生の小島勗(後に作家)を介してキミが13歳の頃に知り、恋心を抱く。小島勗が徴兵され不在の時に小島家に頻繁に通った。一年の徴兵から戻ってきた兄の小島勗は、左翼化して横光と思想で対立したこと、不在中に小島家に出入りしていたことを不快に思ったこと、横光が経済的に乏しかったことを理由に反対される。経済的に困窮していた横光であったが、'23文藝春秋の編集同人となり、新人作家として経済的に安定したことで、親友の佐藤一英を介してキミとの関係を懇願するも小島勗から拒否された。そこで佐藤がキミに直接気持ちを問うと、キミは横光を好きだと答えたため、家出を促した。結果、キミが17歳の時に横光と同棲が始まる。ただ、横光の母の小菊も反対で、姉の静子の説得で納得し、横光とキミと小菊の三人が狭い家で同居生活が始まった。しかし、キミと小菊は性格が合わず、嫁姑に横光は挟まれる状況となり、その心境を『夜の靴』で「鋸の歯の間で寝てゐるやうなもの」と綴っている。
 関東大震災で命は助かったが家は倒壊したため、キミの小島家に居候をさせてもらうこともあったが、折り合いは合わずに別家を借りるも、'24頃よりキミが肺を患う。キミが日本高等女学校を卒業した師走、キミの保護者の同意なしに結婚を挙行した。この時は同意書がなかったため婚姻届けは提出できなかった。'25.1.25 母の小菊が死去。同.6 キミが結核を発病。同.10 療養のため菊池寛の世話で神奈川葉山へ移る。'26.6.24 妻のキミが20歳の若さにて没す。葬儀は麹町の有島邸内文藝春秋社で執り行った。小島家に反対され婚姻届けが未提出になっていたが、同.7 に提出受理された。
 キミとのことは『慄える薔薇』『美しい家』『妻』『春は馬車に乗って』『花園の思想』などに描かれている。キミ没後は一時、キミの実家の小島家で暮らした。しかし、キミの2歳年下の妹に惹かれる恐怖を感じ実家を出ることにしたと『蛾はどこにでもいる』の作品で吐露している。
 '27.2(S2)横光を崇拝していた女子美術学校生であった日向千代子と再婚。媒酌人は菊池寛。同.11.3 長男の横光象三が誕生。'33.1.3 次男の横光佑典が誕生した。



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