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きしだ くにお

岸田国士

きしだ くにお

1890.11.2(明治23)〜 1954.3.5(昭和29)

大正・昭和期の劇作家、小説家

埋葬場所: 18区 1種 10側 1番

 東京四谷出身。岸田家は旧紀州藩士の家系。父は陸軍軍人の岸田庄蔵(1863-1922 同墓)、母の楠子(1862-1941 同墓)との長男として生まれる。
 1912.5.28(M45)陸軍士官学校(24期)卒業。同期に鈴木宗作大将や土橋勇逸(後に中将:21-1-14)、上田勝(後に少将:20-1-21)、甘粕事件の甘粕正彦(後に大尉:2-2-16)らがいる。'12.12.24(T1)少尉に任官、久留米の第48歩兵連隊に配属される。 軍務についていたが文学に傾倒し、病気も重なったため、父の意志に背き軍務を辞し、1917(T6)28歳の時に、東京帝国大学文科大学仏文選科に入学。 フランス文学や近代演劇を学び、豊島与志雄(7-2-17)、鈴木信太郎、辰野隆らと親交を結んだ。特に演劇に興味を持ち、旅費をためて'19神戸より台湾、香港、ベトナムを経由しパリに行き、ソルボンヌ大に学び演劇研究に励んだ。 またジャック・コポーのビュウ・コロンビエ座、ピトエフの一座に出入りし本格的に演劇を学ぶ。父の訃報を受け'23帰国。
 '24処女戯曲『古い玩具』『チロルの秋』を発表。次いで翌年『ぶらんこ』『紙風船』を発表し、新進劇作家として知られた。 戯曲は『驟雨』『葉桜』『村で一番の栗の木』『落葉日記』『牛山ホテル』『歳月』『沢氏の二人娘』『道遠からん』『速水女塾』『カライ博士の臨終』など60編を超える。 語られる言葉の美、劇的文体を追求すべきことを訴えた「現代演劇論」は、かならずしも戯曲の思想性、問題意識を排除するものではない。活動は多岐にわたり、従来の日本の因習的で跛行的な芸術文化の進展の方向に、理想主義的な改革を試み、演劇革命をとなえた。
 「悲劇喜劇」の創刊、日本新劇倶楽部の推進をはじめ、〈演劇研究所〉を設立して新人の育成にも努めた。'32明治大学文藝科教授。 '31より築地座の演出指導、顧問を務め、'37築地座を発展的に解消し、久保田万太郎、岩田豊雄とともに文学座を新たに創立した。 狭義の純文学概念を打破し、一般社会に話しかける言葉をもって、明日の小説を目指した本格ロマンの長編小説『由利旗江』『鞭を鳴らす女』『愛翼千里』『暖流』、『双面神』などを執筆。ルナールの日記などの翻訳も多数ある。 '40〜'42大政翼賛会文化部長として軍部の文化的統制に抗し、文化の防波堤として活動したが、'47公職追放の憂き目にあう。解除後、文学座に復帰。'53芸術院会員。 戦前戦後と演劇の窓をひらくことを企画して、小説家・詩人・評論家を含めた雲の会の文学立体化運動や、最後の仕事となった文学座のゴーリキー作『どん底』演出にいたるまで、演劇運動の現場に一貫してかかわり演劇の理想を追い続けた。
 '52小説執筆中に脳神経麻痺を引き起こし、東大病院沖中内科に入院、二ヶ月後に退院して現場に復帰。'54神田一ツ橋講堂で『どん底』の舞台稽古監督中に、再び脳卒中で倒れ息を引き取る。享年63歳。文学座にて無宗教による告別式が執り行われた。没後、岸田国士戯曲賞が創設された。
 1927(S2)38歳の時に菊池寛(14-1-6-1)の愛弟子として可愛がられていた翻訳家の村川秋子(同墓)と結婚。 長女は童話作家の岸田衿子(1929.12.5-2011.4.7)、次女は女優の岸田今日子(同墓)、甥に俳優の岸田森(1939-1982 鎌倉霊園)がいる。 なお、国士の妹の勝伸枝は作家で、翻訳家の延原謙の妻である。

<コンサイス日本人名事典>
<日本芸能人名事典>


*正しくは岸田國士。

*墓所内には何も刻まれていない大きな寝石。墓所を囲っているブロック塀に墓誌がはめ込まれている。

*岸田國士戯曲賞は新人劇作家の登竜門とされ、若手劇作家の育成を目的に白水社が主催する戯曲賞である。'55新劇戯曲賞として創設、'61新潮社の岸田演劇賞を吸収合併して「新劇」岸田戯曲賞を経て、'79岸田國士戯曲賞と改称され現在に至る。


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