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ながぬま ひでふみ

永沼秀文

ながぬま ひでふみ

1867.10.4(慶応2)〜 1939.2.1(昭和14)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)、永沼挺身隊長

埋葬場所: 19区 1種 21側 16番

 宮城県出身。1886(M19)陸軍士官学校(旧8期) 卒業後、騎兵少尉となり、騎兵第1大隊附となる。同期に田中義一(後の大将・首相:6-1-16-14)、浅川敏靖(後の中将:4-1-21-13)、有田恕(後の中将:8-1-13)、藤井幸槌(後の中将:4-1-35-16)、宮田太郎(後の中将:1-1-4)、岸田庄蔵(後の中佐:18-1-10-1)らがいる。1893軍務局課員、1894宇品運輸通信支部員、1895騎兵第6大隊中隊長、1898騎兵第11聯隊中隊長。1899騎兵第6聯隊附を経て、1902騎兵第8聯隊長となった。
 当時、日本は日清戦争に勝利したものの、いわゆる「三国干渉」により日露間の緊張は高まる一方だった。そして'04(M37)ついに日露戦争が勃発。 永沼がいた第八師団も同年6月に動員されたが戦場に投入されたのは遅く、奉天会戦の前哨戦である黒溝台の戦いから本格的に参戦した。 この時、日本軍は劣勢であったが、第八師団を中核とする臨時立見軍は寡兵よく敵を破り、満洲総軍の危機を救い、これにより第八師団は「国宝師団」と称された。 この先駆けとして偉功を立てたのが、騎兵第八聯隊中佐であった永沼が率いた永沼挺身隊の存在である。
 奉天会戦をひかえた'05(M38)2月12日未明、永沼指揮の騎兵2個中隊(176騎)は、ロシア軍の背後に潜入し、東清鉄道長春駅南方の新開河鉄橋を爆破した。 その後、追跡してきた優勢なロシア騎兵と砲兵の中に突入、これを撃破した。永沼挺身隊の張家窪子月下の襲撃である。 挺身隊は橋梁爆破、通信線の破壊、糧秣集積所の焼打ちなどでロシア軍の後方を攪乱、ロシア軍に多大な脅威と負担を強いた。 3月24日、本隊に帰還し解散。極寒の蒙古を経由しての約2000キロ、75日間の挺進行動は日本軍の勝利に貢献した。 挺身隊は第八師団で最初に感状を受けた。その後、大佐に昇進し、'06騎兵第13聯隊長、'12(M45)少将、騎兵第1旅団長を歴任し、'17(T6)中将となり、侍命、同年予備役となった。 豊田穣著の『二人の挺進将軍建川美次と永沼秀文』(光人社)がある。

<日本陸軍将官総覧>
<日本史辞典など>


*墓石には永沼秀文の刻みはない。昭和30年代に管理事務所が出した埋葬者抜録の書物に記されていたので載せることとした。

*永沼と同じくロシア軍の背後に潜入した、山中峯太郎(14-1-8-7)著の『敵中横断三百里』のモデルとなった建川美次(13-1-2)率いる建川挺身隊、『敵中四騎挺進』のモデルとなった山内保次(12-1-31) 率いる山内挺身隊が有名である。 3部隊の挺身隊長、その武功を著した作家が同じ霊園に眠る。


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