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やまうち やすつぐ

山内保次

やまうち やすつぐ

1881.7.16(明治14)〜 1975.11.10(昭和50)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(少将)、
「敵中四騎挺進」の主人公

埋葬場所: 12区 1種 31側

 新潟県出身。1902.11.22(M35)陸軍士官学校卒業(14期)。同期に西尾寿造(後に大将:16-1-8)、古荘幹郎(後に大将:20-1-18-11)、佐村益雄(後に中将:12-1-13-41)、末松茂治(後に中将:9-1-8)、橋本虎之助(後に中将:13-1-7)、森田宣(後に中将:24-1-1)、山室宗武(後に中将:15-1-1)、児玉源太郎(8-1-17-1)の三男の児玉友雄、二宮健市(後に少将:22-1-40-1)らがいる。翌年陸軍少尉。
 '04日露戦争勃発。旅順攻略に成功した日本軍は、翌年、沙河対陣中、次期作戦を奉天を中心とする地区と予期し、敵は果たして奉天に於いて決戦を企図するか、それとも鉄嶺まで退いて日本軍を迎え撃とうとするか状況判断に迷っていた。 このため情報収集を行うために好古に将校斥候の派遣を命じた。好古は山内保次少尉以下4騎(山内挺進斥候 騎兵14連隊兵3人 満通訳1人)を1月4日に、建川美次(13-1-2)中尉以下6騎(建川挺進斥候 騎兵第9連隊)を1月9日に鉄嶺へ向けて派遣した。
 山内隊は途中で馬賊を指揮する橋口少佐と会い、紹介された通訳を伴って鉄嶺を目指した。その後はロシア兵を装って潜行を続け、食料の確保や極寒期の野営、さらに敵の追撃に苦しみながらも14日には鉄嶺近辺に達することができた。 ここで山内は報告のために通訳を送り返すとともに、ちょうど発生した霧に紛れて鉄嶺市街に進入した。 途中で何度か敵騎と出くわしたが、引き返すとかえって怪しまれると思ってそのまま横を通過し、さらに100騎ほどの敵縦隊の後に付いて行くなど大胆に行動して敵情を探り続けた。 そして敵の追撃をかわしながら1月21日に沈旦堡に帰還した。山内斥候は18日間、總行程1000キロ。 山内、建川らは「鉄嶺の部隊は総予備軍ではなく、単なる後方守備隊である」「鉄嶺付近の工事は簡易なものである」「北方から列車で鉄嶺に来た兵士達は、そこで下車することなくそのまま南下していく。北上してくる列車はほとんど空席」など、ロシア軍が鉄嶺への撤退戦術をとるのではなく奉天での決戦に備えていることをうかがわせる重要な情報をもたらした。 これら勇敢な挺進斥候(ていしんせっこう:挺(ヌキ)ん出て進む特別の斥候の意)の活躍は、山中峯太郎(14-1-8-7)著作の冒険小説『敵中横断三百里』(1931刊行 建川挺進斥候がモデル)、次いで『敵中四騎挺進』(1941刊行 山内挺進斥候がモデル)により紹介され、大ベストセラーとなった。
 日露戦争後は、騎兵学校教育に携わり、'29(S4)陸軍騎兵第一旅団第13聯隊長(第12代目)。'32少将・待命。翌年予備役。'45新潟地区司令官となった。享年94歳。
 なお、山内の息子の山内保武(同墓)は、太平洋戦争中に栗林中将率いる第109師団後方参謀となり、硫黄島で戦死した。陸軍少佐(陸士47期)。

<日本陸軍将官総覧>
<「春や昔」など>


*墓石左面に山内保武、山内保次の簡略歴等が刻む。墓石は山内保次が'56.3.7(S31)に建立した。

*同時期に命をかけた挺身隊を率いた山内保次と建川美次、そして同じくロシア軍の背後に潜入した永沼秀文(19-1-21-16)率いる永沼挺身隊。また、挺身隊の武功を著した作家の山中峯太郎の全員が同じ霊園に眠る。



第381回 日露戦争 適陣地に潜入 敵中四騎挺進
挺身隊 斥候 山内保次 お墓ツアー


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