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やまなか みねたろう

山中峯太郎

やまなか みねたろう

1885.12.15(明治18)〜 1966.4.28(昭和41)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人、
中国革命家、児童文学者、翻訳家

埋葬場所: 14区 1種 8側 7番

 大阪出身。大阪の呉服商の馬淵浅太郎の次男として生まれるが、三歳のときに一等軍医で開業医をしていた山中恒斎の養子となった。後に恒斎の娘の ミユキ と結婚。山中峰太郎とも表記する。
 大阪陸軍地方幼年学校を経て、1904(M37) 陸軍中央幼年学校本科を次席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受。その後、陸軍士官学校(18期)に進学。同期に阿南惟幾(後に大将:13-1-25-5)、山下奉文(後に大将:16-1-8-6)、甘粕正彦(2-2-16)の兄の甘粕重太郎(中将)、井上政吉(後に中将:20-1-18-12)、大島浩(後に中将:14-1-2-3)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、澤田茂(後に中将:4-1-26-2)、常岡寛治(後に中将:10-1-4)、内藤正一(後に中将:9-1-19)、飯塚朝吉(後に少将:3-1-25)、石井善七(後に少将:12-1-13-13)、後藤廣三(後に少将:9-1-5)らがいた。しかし脚気を患い自宅療養を命じられたため、卒業が1期遅れて、1907 卒業。
 この間、養父の医院の経営状態が悪かったため、山中は休日に図書館に通い多くの書物を読み、家計の一助になればと、小説『真澄大尉』を執筆。大阪毎日新聞に持ち込んだところ高く評価され、吾妻隼人(あずま はやと)の名義にて連載。'10以降は朝日新聞などの各新聞や雑誌に山中未成、石上欣弥、三条信子、大窪逸人の名義のペンネームを用いて執筆活動を行った。『幽霊探訪』(1916)は大窪逸人として残した作品。
 陸軍士官学校卒業後は、歩兵少尉に任官し、近衛歩兵第3聯隊附。 '10歩兵中尉となり、陸軍大学に入学するも'12 退校している。これは、1911 辛亥革命が起き、清朝から中華民国へ変化する中国大陸の政治情勢の中、孫文は袁世凱に敗れて亡命。袁世凱の専制に反対する青年将校たちによって第二革命が起きる。その青年将校の多くが、陸軍士官時代の学友であったため、山中は一日でも早く中国に渡り、第二革命に参加して同志を助けたい一心になった。そこで故意に陸軍大学から退学させられるような振舞いを行い、願い通り、退校処分となり近衛歩兵第3聯隊附に戻されたという経緯がある。
 '13 朝日新聞社通信員となり上海へ渡り、中国革命軍に身を投じた。しかし革命は失敗に終わり帰国。'14年 陸軍を依願免官し、益々中国革命軍に投じる。亡命した孫文らを支援し、さらにインド人の亡命革命家チャンドラ・ボースらをかくまった。だが日英同盟に従属する日本政府、袁世凱・孫文などの勢力均衡の上に立とうとする日本陸軍との間には亀裂が生じ、第一次世界大戦の勃発と、反日運動の高まり、袁世凱と孫文の連携などによって、西欧による植民地支配からの解放を目指した山中のアジア革命幻想は潰え去った。
 '17(T6)亡命の形で帰国するも「淡路丸偽電事件」による風評の流布により逮捕される。翌年、懲役2年(取引所法・電信法違反) の判決が下る。これは「客船淡路丸が沈没した」という嘘の情報を新聞社に流し株式市場を混乱させたという罪である。'19出獄。
 出獄後は宗教的な著述を精力的に行うようになる。当時は、聖(内なる思い)と俗(生活のための売文への疑問)との迷いの中にあったが、関東大震災の経験により、迷いからの脱却を遂げ、以後、精力的に執筆活動に打ち込み、少年冒険小説作家として活躍。
 '30(S5)「少年倶楽部」に軍事冒険小説『敵中横断三百里』の連載を開始。日露戦争のとき、中国東北部に深く潜入した建川美次(13-1-2)中尉をリーダーとした挺身斥候隊6人の活躍のモデル作品で大人気を博した。この作品は、'36.3までに197版という恐るべき売り上げを記録した。黒澤明が映画化を計画し『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』のタイトルで脚本を手掛けた。戦後、小国英雄(22-1-135)と黒澤が脚色したものを、大映で映画化(1957年公開)もされた。
 その後も、'32『亜細亜の曙』、'33『万国の王城』、'34『大東の鉄人』などベストセラーを立て続けに刊行し、映画化になる。'41 ロシア軍の背後に潜入した山内保次(12-1-31)をモデルにした山内挺身隊を描いた『敵中四騎挺進』を出版。
 戦前は戦記ものの作品が多かったが戦後は、伝記小説、SF小説のほか、'56より翻案『シャーロック・ホームズ全集』で日本中の子供たちを熱狂させた。コナン・ドイル執筆の『名探偵ホームズ全集』は2年間で100万部近くの部数を売上げた一方、正確な翻訳ではないという一部から抗議の声があがる。それに対して山中は、そのまま翻訳しても日本人にはわからないことが多く、また前後の辻褄が合わない、現実にはありえない描写、矛盾があったので、様々な修正や加筆を行い、矛盾を解消し、日本の少年少女がより楽しめるようにするための翻訳をしたと語っている。
 その他の主な著書に『現代空中戦』('14)、『生ける少女』('20)、『我れ爾を救ふ』(シリーズ)、『俺は帰る』('21)、『私の生死』('23)、『爆進三人男』('30)、『聖なる乳房』('32)、『白道を歩む』('35)、『亜細亜のスパイ戦』('36)、『火線の三人兵』('36)、『世界無敵弾』('37)、『戦に次ぐもの』('38)、『泥の担架』('38)、『新支那の感情』('39)、『空と陸の秘密戦』('40)、『覚(ぼだい)に生きる』('41)、『大東亜少年軍』('41)、『東亜武侠人』('42)、『戦車部隊』('43)、『国性爺合戦』('44)、『国は一つなり』('46)、『地下の迷宮』('47)、『洞窟の王冠』('48)、『曙の傑人』('48)、『少年少女時代小説 風雲龍虎陣』('49)、『嵐に叫ぶ少年』('50)、『陸軍反逆児』('54)、『とびだせ英二!!』(シリーズ '58)、『肚で行く』('65)など多数。『見えない飛行機』『禅とはなにか』『小指一本の大試合』『星の生徒』などリバイバル作品も多く、また'29(S4)山中ミユキ夫人と共著で『円満御家庭』も刊行した。'66『達磨』執筆が絶筆。享年80歳。

<コンサイス日本人名事典>
<日本陸海軍総合事典>
<図説日露戦争>
<山川日本史小辞典など>


*墓石は細長い石塔のような墓石正面「山中家」、裏面「山中峯太郎 昭和四十一年四月二十八日没」と刻む。


【挺身隊と多磨霊園】
 山中峯太郎の代表作である『敵中横断三百里』('31刊行)は建川美次(13-1-2)率いる建川挺身隊を描いた作品である。山中はロシア軍の背後に潜入した挺身隊を描いた『敵中四騎挺進』('41刊行)を出している。このモデルとなった人物は山内保次(12-1-31)である。作品にはなっていないが、同じくロシア軍の背後に潜入した永沼秀文(19-1-21-16)率いる永沼挺身隊がある。3部隊の挺身隊長、その武功を著した作家が同じ霊園に眠る。



第379回 名探偵ホームズを日本流に翻訳
軍人・中国革命家からの児童文学者 山中峯太郎 お墓ツアー


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