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すえまつ しげじ

末松茂治

すえまつ しげじ

1882.5.15(明治15)〜 1960.8.6(昭和35)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)、小倉市長

埋葬場所: 9区 1種 8側

 福岡県出身。末松久次郎(同墓)の長男として生まれる。1902.11.22(M35)陸軍士官学校卒業(14期)。同期に西尾寿造(後に大将:16-1-8)、古荘幹郎(後に大将:20-1-18-11)、佐村益雄(後に中将:12-1-13-41)、橋本虎之助(後に中将:13-1-7)、森田宣(後に中将:24-1-1)、山室宗武(後に中将:15-1-1)、児玉源太郎(8-1-17-1)の三男の児玉友雄、二宮健市(後に少将:22-1-40-1)、山内保次(後に少将:12-1-31)らがいる。'03.6 歩兵少尉に任官。'11.11.29陸軍大学校卒業(23期)。同期に川岸文三郎(後に中将:3-1-24)、森田宣、相沢三郎中佐に斬殺(相沢事件)された永田鉄山(中将・軍務局長)、大家徳一郎(少将:12-1-10)らがいた。
 様々な要職を経て、'24.8.20 歩兵大佐に昇進し歩兵第1連隊長に就任。'25.5.1 歩兵第45連隊長に移り、'27.7.26(S2)教育総監部庶務課長を務める。'30.3.6 少将に進級し、歩兵第36旅団長となる。'31.8.1 陸軍歩兵学校付となり、'32.4.11 陸士幹事を経て、'34.3.5 中将に進み、第32代 陸軍士官学校校長に就任した。
 '35.12.2 第14師団長に親補された。'37.3.1 待命、同.3.29 予備役に編入。しかし、同.10.20 日中戦争に伴い召集され新設の第114師団長に就任し出征。南京攻略戦、徐州会戦に参戦した。'39.3.9 参謀本部付、同.3.22 召集解除となった。
 '42.5.27 小倉市(現在の北九州市)の市長に推され、第13代小倉市長に就任。既に太平洋戦争中であり、八幡大空襲など厳しい中、そして終戦後の食糧難や不安定な状況の中で市長として奮闘した。そのような敗戦の混乱時期、'46.1.25 公職追放指令により辞任を余儀なくされ退任した。
 小倉市は後任選考を開始したが適任者を得ることができず、候補の人選を福岡県知事に一任し、同.3.30 ようやく市会協議会は知事推薦の平城国義を満場一致で推薦した。だが、同.5 平城も追放該当者として高いことがわかり選考は振出しに戻る。最終的に初めて市民の投票により決める公選を行うことにしたが、立候補したのが浜田良祐一人であったため、同.7.4 選挙は実施せずに浜田が小倉市長となり、ようやく落ち着いたという経緯があった。
 正4位 従3位 勲4等 功4級。享年78歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官辞典>
<日本陸海軍総合事典>
<1946年の市長公選運動>
<人事興信録など>


墓所

*墓石は和型「末松家之墓」、左右に墓誌が建つ。右側の墓誌は末松茂治の祖父の末松源右衛門(1825.2.2-1905.4.15)からの一族が刻む。祖母はキク(1825.9.1-1893.5.21)。父の末松久次郎(きゅうじろう:1858.10.5-1923.3.2)は源右衛門の二男。母はワキ(1859.9.15-1928.4.27)。茂治の弟で二男の慶次郎(1885.8.23-1918.12.8)、三男の菊之助(1889.8.17-1978.9.16)、四男の三郎(1895.8.25-1975.6.21)、五男の一顯(かずあき:1903.11.1-1905.3.25)らが刻む。

*左側の墓誌は末松茂治の一族が刻む。早死した三女の淑子、二男の茂大から刻みが始まる。茂治の妻はハル(1887.4.29-1975.3.23)。長男の茂久(1910.7.25-1998.6.12)は陸軍少佐、茂久の妻は澄子(1914.11.5-2013.4.25)。茂久と澄子の長男は茂明、茂明の妻は正子(1942.9.3-2021.4.5)、茂明の長男は茂広(1960.11.19-1985.9.9)。

*なお人名事典では茂治のヨミを「しげはる」と記載されているが、墓誌にはわざわざ「しげじ」とフリガナまで刻んでいるため「しげじ」で統一する。

*末松茂治の妻のハルの弟は陸軍大尉の迫水久成(左隣の墓所)、久成の長男は政治家の迫水久常(左隣の墓所)で甥にあたる。迫水久成の妹の郁は岡田啓介(9-1-9-3)の後妻。ハルの妹は古川弘海軍少将、妹のマスは田所廣海(2-1-2-1)海軍中将に嫁いだ。田所廣海とマスの長男は思想運動家の田所廣泰(2-1-2-1)。


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