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すえまつ しげひさ

末松茂久

すえまつ しげひさ

1910.7.25(明治43)〜 1998.6.12(平成10)

昭和期の陸軍軍人(少佐)、技術将校

埋葬場所: 9区 1種 8側

 東京出身。陸軍中将の末松茂治、ハル(共に同墓)の長男。母方の従兄弟に政治家の迫水久常(隣の墓所)や思想家の田所廣泰(2-1-2-1)らがいる。
 1923(T12)麻布中学に入学するが、翌年、陸軍幼年学校に進み、陸軍士官学校、砲兵学校を経て、東京帝国大学物理学科を卒業。'38(S13)陸軍航空研究所に配属され、技術将校としての道を歩んだ。
 '41 ドイツ駐在を命ぜられ、日本大使館付武官として着任。ベルリン到着から間もなく、同.6.22 ドイツとソ連が戦争状態となる。日独連携強化のため、日本から派遣された駐在員は官民を含め多かったが、両国間の連絡が途絶え、物資の交流が不可能になる。そのため仕事も少なく待機状態が続いた。同.8.1 少佐に昇進。軍人でありながら、ドイツではほとんど背広で通したという。なお、現地では西郷従吾(10-1-1-1)中佐らと仕事をした。
 '43.2.3 戦時中は取得の難しかったスイスの入国ビザを得て、スイスのフランス語圏の保養地レザンに向かう。同.5 ドイツのベルリンに戻り、ドイツ空軍の航空研究所に入る。航空機関係の責任者であった大谷修少将の「ベルリン日記」に末松が登場する。当時の記録からも末松はふっくらした体型で食べる量も多かったことから、仲間からはドイツ語の"Gourmand"(大食漢)を意味する「グールマン」と呼ばれていた。
 '44.7 ドイツの航空研究所を辞し、陸軍武官室の事務所に勤務。'45.1.15 末松ら陸軍武官室のメンバーは疎開のため、ベルリンの東南60キロにあるトイピッツに事務所を移した。その後、大島浩(14-1-2-3)ドイツ大使ら外交官の避暑地バート・ガスタインに合流し、そこでアメリカ軍によって抑留された。同.6.30 大島大使らとフランスのルアーブルに移動させられる。この地で日本の敗戦を知る。戦後、'45.12.6 アメリカの手により全ての紙類や所有物は没収されたが命は助かり、神奈川県浦賀港に到着し帰国。
 末松茂久がドイツから妻に送った手紙を娘が編集し『末松茂久のドイツからの手紙』があり、当時の様子が伺える貴重な資料となっている。またこれら資料をもとに横浜日独協会常務理事を務めている大堀聰が『末松茂久少佐戦時日欧通信記』としてまとめ公開している。

<末松茂久のドイツからの手紙>
<末松茂久少佐の戦時日欧通信記>
<人事興信録など>


墓所

*墓石は和型「末松家之墓」、左右に墓誌が建つ。右側の墓誌は末松茂治の曽祖父の末松源右衛門(1825.2.2-1905.4.15)からの一族が刻む。祖母はキク(1825.9.1-1893.5.21)。父の末松久次郎(きゅうじろう:1858.10.5-1923.3.2)は源右衛門の二男。母はワキ(1859.9.15-1928.4.27)。茂治の弟で二男の慶次郎(1885.8.23-1918.12.8)、三男の菊之助(1889.8.17-1978.9.16)、四男の三郎(1895.8.25-1975.6.21)、五男の一顯(かずあき:1903.11.1-1905.3.25)らが刻む。

*左側の墓誌は末松茂治の一族が刻む。早死した三女の淑子、二男の茂大から刻みが始まる。茂治の妻はハル(1887.4.29-1975.3.23)。長男の茂久、茂久の妻は澄子(1914.11.5-2013.4.25)。茂久と澄子の長男は茂明、茂明の妻は正子(1942.9.3-2021.4.5)、茂明の長男は茂広(1960.11.19-1985.9.9)。

*長男の末松茂明は、2016(H28)「思い出ガタゴト 東京都電diary」に『登り急カーブとドイツからの手紙』が入選され掲載された。


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