東京出身。海軍中将の田所廣海・マス(共に同墓)の長男。政治家の迫水久常(9-1-8)の従兄弟。首相を務めた岡田啓介(9-1-9-3)は遠縁にあたる。
学習院初等科、府立一中、一高文科甲類を経て、1931(S6)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年内務大臣秘書官補佐となる。
東京帝国大学在学中に小田村寅二郎(後の亜細亜大学教授)らと反戦思想を担った中心的な右翼学生として活動し、公然たる学風批判事件(小田村事件)を起こし、帝国議会でも大きく取り上げられるなど過激な運動を行った。
小田村事件が起こると、その支援のために全国的な学生運動を展開し、伊藤述史の日本学研究所所員を経て、思想団体である精神科学研究所(国民文化研究会)を設立して理事長。
'40近衛文麿らを顧問として、三井甲之、黒上正一郎らと日本学生協会を創立、その理事長に就任した。
太平洋戦争開戦後は、南方作戦の終了後も東條内閣が一向に終戦工作に取り掛からないのを見て、東條内閣を徹底して批判し早期講和を求める運動を展開。
また、古代の防人や日露戦争中の日本軍人の和歌には、家族と別れて入営する辛さ悲しみも素直に詠まれていたにもかかわらず、大東亜戦争中はこうした歌を発表すること自体を軍部が禁止したことを強く批判し、国のために尽くしたいとする「公」の気持ちも、家族を心配する「私」の気持ちも共に偽りなき人間の「まごころ」であると主張した。
当時流行の「滅私奉公」のスローガンのように「私」を滅することは所詮不可能であり、「私」を大切に思いながらも、尚「公」に向かおうとする「背私向公」こそが人間の自然な感情とするものであるという思想を展開した。
東條内閣打倒の思想活動に対して、東條英機自身が司法省や内務省に取締りを命じたが、両省とも同情的立場を取り取締りを強化しなかった。そのため、東條は憲兵隊を使い徹底的な弾圧を実行し、日本学生協会及び精神科学研究所を壊滅に追い込んだ。
'43検挙され、翌年も拘置され、合計して憲兵に三度逮捕された。その都度、拷問に近い取調べを受け、もともと病弱であったことも重なり健康状態が悪化、終戦後の'46疎開先の岩手県で逝去。享年35歳。
没後、'70(S45)同士である小田村寅二郎の手により『憂国の光と影 田所廣泰遺稿集』がまとめられた。