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ありた ひろむ

有田 恕

ありた ひろむ

1863(文久3.1.7)〜 1927.12.11(昭和7)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 8区 1種 13側

 広島県三次出身。1886.6.25(M19)陸軍士官学校卒業(旧8期)。同期に田中義一(後の大将・首相:6-1-16-14)、浅川敏靖(後の中将:4-1-21-13)、佐藤鋼次郎(中将:2-1-4-13)、永沼秀文(後の中将:19-1-21-16)、藤井幸槌(後の中将:4-1-35-16)、宮田太郎(後の中将:1-1-4)、岸田庄蔵(後の中佐:18-1-10-1)らがいる。
 砲兵大尉任官。翌年、 砲兵第5聯隊小隊長から中尉となり、陸軍教導団砲兵大隊附、生徒隊附を経て、1890陸軍大学校に入校し、野砲兵第6聯隊附、大尉に昇級して1893.11.30陸軍大学校を優等で卒業(9期)した。野砲兵第6聯隊中隊長、副官となり、1895.8.26第6師団参謀に就任した。
 1896.5.11参謀本部第2部員、同.6.2海軍軍令部第2局員を兼務、同.10.2陸軍大学校兵学教官となり、1898.1.25陸軍大学校少佐兵学教官心得、同.2.3元帥副官兼勤(元帥陸軍大将大山巌附属)、同.10.1少佐に昇格した。
 1900.2.28軍事研究のためドイツ駐在を経て、'03.5.27参謀本部員、'04.2.3中佐に進級して、同.3.15第2軍兵站参謀長に着任した。'05.8.15留守第4師団参謀長、'06.3.19野砲兵第3聯隊長を歴任し、同.12.14大佐に昇格した。
 '07.4.13第9師団参謀長、'10.10.10野砲兵第22聯隊長を務め、'12.9.28(T1)少将に累進し、広島湾要塞司令官に就任した。'13.8.22重砲兵第1旅団長、'15.5.24野砲兵第2旅団長、'16.1.21台湾総督府陸軍参謀長を務めた。'17.8.6中将に進級し、待命。同.12.1予備。'26.4.1後備となり、'30.4.1(S5)退役。著書に『支隊戦術講授書』がある。正4位 勲2等 功3級。享年64歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*墓石は和型「有田家之墓」。左面が墓誌となっており、有田恕から刻みが始まり、「陸軍中将 正四位 勲二等 功三級」と刻む。墓誌の最後に「広島県三次より先祖の墓を移転埋葬 平成十年五月二十一日」と刻む。

*妻は芳。有田清樹(S44.3.15歿)が継ぐ。長女の静子は陸軍中将の上月良夫に嫁ぎ、二女の綾子は朝鮮総督府官僚の塩田正洪に嫁いだ。


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