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ふじい こうつち

藤井幸槌

ふじい こうつち

1864.2.12(文久4.1.5)〜 1927.4.18(昭和2)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 4区 1種 35側 16番

 山口県出身。藤井由助の次男として生れる。年少期には郷里の萩で田中義一(6-1-16-14)、柴田家門と共に「俊秀なる三少年」と称せられた程の秀才であった。 田中義一は後に陸軍大将・首相になる。柴田家門は桂太郎内閣で内閣書記官長・文部大臣となる。後に藤井の妻となる長子(ちょうこ・S14.10.15没 同墓:墓誌には長子と刻む)は柴田家門の妹。
 1886.6.25(M19)陸軍士官学校(旧8期)を卒業。同期に田中義一(後の大将・首相:6-1-16-14)、浅川敏靖(後の中将:4-1-21-13)、有田恕(後の中将:8-1-13)、佐藤鋼次郎(中将:2-1-4-13)、永沼秀文(後の中将:19-1-21-16)、宮田太郎(後の中将:1-1-4)、岸田庄蔵(後の中佐:18-1-10-1)らがいる。
 歩兵少尉に任官し、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892.12.2陸軍大学校(8期)を卒業した。1894.4陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900.10(M33)陸軍少佐となって近衛歩兵第4連隊付。参謀本部員、兼務して陸大教官などを歴任。
 '04.2第12師団兵站参謀長に発令され日露戦争に出征。同.5.2第3軍兵站参謀長、'05.1.15鴨緑江軍兵站参謀長として奉天会戦などで指揮を執った。 '06.5.14参謀本部付、同.7.11第6師団参謀長を経て、'07.11.13陸軍大佐となる。同.12.13歩兵第22連隊長に着任。'09.1.28歩兵第3連隊長、同.11.30近衛師団参謀長を歴任し、'12.4.12陸軍少将に進級して、歩兵第7旅団長に就任した。
 '14.11.26(T3)独立守備隊司令官を経て、'16.8.18陸軍中将に昇格して、第7師団長を拝命、満州在駐していたがシベリア出兵に従軍した。'19.11.25(T8)近衛師団長に就任。'22.2.8待命、同.5.1予備役。享年64歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将軍総覧>
<人事興信録>


*墓石は和型「藤井家之墓」。右側に墓誌がある。戒名は大眞院釋覺知至誠大居士。「陸軍中将 正三位 勲一等 功二級」も刻む。多くの人名事典では没年月日が昭和二年四月十七日と記されているものが多いが、墓誌には没年月日が「昭和二年四月十八日薨」と刻むため、こちらを採用した。

*藤井幸槌の妻は長子(ちょうこ:M4.12-S14.10.13:同墓)は柴田英佐の長女であり、内務省官僚・貴族院議員として文部大臣を務めた柴田家門の妹。二人の間に5男1女を儲ける。長男は幸義(M31.1-S47.2.24:同墓)。長女は富士子(M41.10-)。二男は早死。三男の正光(M36.7-)は柴田家門の養子となり柴田正光。四男は信男(M40-)。五男は忠雄(M44.4-)。

*柴田家門(1862-1919.8.25)は長門国萩平安古(山口県萩市)出身で、年少期には田中義一(6-1-16-14)・藤井幸槌とともに秀才と称された。東京帝国大学法科大学を卒業し、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官などを歴任。1898(M31)第2次山県有朋内閣のもと内務省地方局長1901 第1次桂太郎内閣の書記官長。日露戦争が勃発すると桂首相を補佐して功を立てた。'06 官を辞め、貴族院議員に勅撰。'08 第2次桂内閣で書記官長に再任し、韓国併合の際に拓殖局総裁に転じる。'12(T1)第3次桂内閣に文部大臣。その一方、同郷の青少年の育成に努め、防長教育会や防長倶楽部などの維持に尽力した。墓は青山霊園 1ロ8-39。

<萩の人物データーベース>


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