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みやた たろう

宮田太郎

みやた たろう

1864(元治1.3.15)〜 1945.10.26(昭和20)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 1区 1種 4側

 静岡県出身。徳川の幕臣の高田順蔵の次男として生まれる。後に伯父の宮田慶幸の養子となり、幼名の太郎次を太郎と改めた。1886.6.25(M19)陸軍士官学校(旧8期)を卒業、砲兵少尉に任官。 同期に田中義一(後の大将・首相:6-1-16-14)、浅川敏靖(後の中将:4-1-21-13)、有田恕(後の中将:8-1-13)、永沼秀文(後の中将:19-1-21-16)、藤井幸槌(後の中将:4-1-35-16)、岸田庄蔵(後の中佐:18-1-10-1)らがいる。
 主に兵器製作・技術畑を歩み、1904.4.25(M37)第5師団弾薬大隊長になり、同.6.20編入。同.9.3第1軍・第12師団隷下の野砲兵第12連隊長に就任して日露戦争に出征。 沙河会戦後、同.11.16野砲兵第5連隊補充隊長を発令され帰還した。同.12.12臨時台湾兵器製造所長となる。'05.3.1砲兵大佐に昇進。'06.6.2陸軍技術審査部付となり、'07.11.25技術審査部審査官、'12.4.26陸軍少将に進級した。
 '13.8.22東京砲兵工廠提理に就任。'16.8.18(T5)中将に累進し、'20.8.10陸軍技術本部長の栄職に補され、同.11.1わが国の科学技術の向上に尽力し、諸外国を歴訪して技術上の意見交換をして発展に尽くした功績により勲一等旭日大綬章受章。'21.5.5予備役。'27(S2)退役。
 人格は高潔度量大海の如くにして後輩を指導鞭撻すること我子に封するが如く。来る求むものは官民を問わず、その財全てを投げ打って、文化日夲の建設に貢献した。従3位、功4級。享年82歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将軍総覧>
<碑文より>


墓所 碑文

*墓石「宮田家之墓」。左側に「碑文」と刻む「故 宮田太郎閣下頌徳之碑」が建つ。碑の謹書は上西甚蔵、建之は河野来吉(建之:昭和21年10月26日)。


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