本籍は群馬県。父は日露戦争の奉天会戦にて戦死した陸軍大佐の堀江不可止(同墓)。
1894(M27)陸軍中央幼年学校予科入学以来、ロシア語の研究を一貫して行う。1912.5.28(M45)陸軍士官学校卒業(24期)。同期に鈴木宗作大将や土橋勇逸(後に中将:21-1-14)、上田勝(後に少将:20-1-21)、佐藤鐵馬(後に大佐:2-1-4-13)、甘粕事件の甘粕正彦(後に大尉:2-2-16)、劇作家に転身した岸田国士(18-1-10-1)らがいる。同.12.24(T1)歩兵少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊第1大隊付となる。
'20.5(T9)ロシア語研究のため、陸軍省よりイルクーツクに派遣され留学。同年、シベリア出兵の際に交通部員となり、引き続きイルクーツクにあたるが、'21 ウラジオストク野戦交通部本部員に転任し、ウラジオストク駐屯となる。中尉に昇進。ロシア革命によりこの地に逃げ延びた白系ロシア人に対して、ハルビン特務機関のウクライナ人担当として、極東地域に駐屯した日本陸軍の将校として活動。
ロシア語が堪能な堀江はシベリア出兵時頃に白系ロシア人(沿海州のウクライナ系)のアナスタシヤ・チヤリキナ(同墓)と出会い、同棲するようになり、一児を儲ける。しかし、陸軍当局はこれを問題視し「婦人と別れれば問題なしとする」と通達。仲間からも説得されたが、堀江は「此處まで来て母子を見捨てたのでは、日本の将校として如何にも無責任と信ずるから、寧ろ潔く退官の道を選びその責任をとる」と答え、陸軍軍人を辞める決意をし、'22 予備役編入となった。最終階級は陸軍大尉。
'22.8 大連所在満鉄本社交渉部に転職し、南満洲鉄道哈爾濱事務所調査課・情報主任になるが、年末に退職し、一時帰国。'23.3 亡命という形で日本入りしたアナスタシヤと正式に婚姻した。その後、満洲国外交部ハルビン支部の情報部長となった。
この間、正教徒に受洗。洗礼名はコンスタンティン・コンスタンティノヴィッチ。'26〜'37 堀江は「K・K・ホリエ」と名乗るようになる。在米ウクライナ自由科学アカデミーのイヴァン・スヴィット・フォンドは著作の中で、2通りの記載方法があり「K・K・ホリエ」は洗礼名として、「K・ホリエ」は本名を意識して書かれたと思われると記述している。
'31 参謀本部の斡旋で和歌山歩兵連隊附ソ連邦実習将校 ミハイル・キリロヴィチ・ポクラドクの通訳として採用される。'37.1.1 日本に一時帰国した際、到着した日にアナスタシヤが急逝(行年36才)。新年早々に神田のニコライ堂(東京復活大聖堂)で葬儀を行った。
日中戦争に応召され天津で勤務。戦後は東京の淀橋に住んだが、腸を病み病没した。行年68歳。
*墓所には5基建ち、正面に3基並ぶ。左から和型「堀江家之墓」、裏面「昭和三十四年一月 堀江一正 建之」。真ん中に「陸軍歩兵大佐 従五位 勲三等 功三級 堀江不可止 墓」、右面「明治三十六年三月九日 於清國 盛京省」日露戦争にて戦死した旨が刻み、行年四十有九。左面は妻のモノ(S33.1.13 行年95歳)が刻む。右に和型「堀江修之墓」、裏面「昭和五十一年初月 堀江一啓 建之」、右面「昭和五十一年一月二十日歿 行年七十五才」と堀江修の没年月日と行年が刻み、次に妻の菊子(H6.8.25没・行年86才)、長男の一啓(R2.11.1歿・行年87才)が刻む。墓所右手側に「堀江啓之墓」、右面「明治四十二年六月二十一日没す」と刻む。墓所左手側に「堀江静之墓」、右面に堀江不可止の四男であり明治三十三年月月三十に病死した旨が刻む。墓所左側に墓誌が建ち、一正の妻で白系ロシア人の堀江アナスタシヤ(S12.1.1歿・行年36才)、次に堀江一正の没年月日と行年が刻む。次は主婦之友社から『家庭園芸宝典』(1934)、『大輪朝顔の作り方』(1935)を著した堀江忞(S45.11.23・行年75才)、ハナ(H4.11.27歿・行年84才)、ジュリエッタ(絢子)メドウ(2012.11.15・89才)、堀江美佐子(H30.10.12歿・行年101才)が刻む。
*父の堀江不可止(ほりえ ふかし)は群馬県出身。1904.10 中佐の時に第5師団歩兵第42連隊として日露戦争に出征し、奉天会戦に参戦。1905.3.9(M38)沙汰子の攻撃中に伝令がことごとく散華、連隊長自らが伝令として旅団司令部に赴き戦況を報告ののち、再び前線に復帰した。その時、頭部に敵弾を受け戦死した。没後一階級特進し大佐となった。正5位 勲3等。山口市にある山崎陸軍墓地にも墓標が建つ。
*堀江一正の妻である白系ロシア人のアナスタシヤの名前は、『満洲通信』やハルビンのロシア語新聞『ザリャー』の死亡記事では「リュドミーラ・フェドローヴナ・ホリエ」と記載されているが、墓誌には「堀江アナスタシヤ」と刻むため、アナスタシヤが正しいと思われる。