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ふなはし せいいち

舟橋聖一

ふなはし せいいち

1904.12.25(明治37)〜 1976.1.13(昭和51)

昭和期の小説家、劇作家

埋葬場所: 3区 2種 6側 3番

 東京出身。父は地質学の権威であった舟橋了助、さわ(共に同墓)の長男。母方祖父の近藤陸三郎は足尾銅山の所長から古河財閥の理事長にまで上りつめた財界人。12月25日のクリスマスに長男が誕生したということで「聖一」と名付けられた。なお舟橋家はクリスチャンではない。弟に脚本家の舟橋和郎。
 旧制水戸高等学校在学中より舟津慶之輔(ふなづ よしのすけ)の筆名で短歌・戯曲を発表し、同人雑誌「歩行者」に参加。小山内薫の門下生になる。'24.6(T13)父の了助が部下の不祥事がきっかけで東京帝国大学教授を辞職。'25(T14)高校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に進学。文芸部雑誌「朱門」同人となり、創刊号に戯曲『信吉の幻覚』を発表、翌年に戯曲『痼疾者』が上演され、上司小剣(4-1-57-35)や秋田雨雀に認められた。また村山知義や4代目河原崎長十郎らと劇団「心座」を結成。
 '26.7 百壽(同墓:通称名は百子)と結婚。百壽の父は聖一の父の了助の兄であるため従妹(いとこ)同士である。この時、聖一はまだ21歳の学生(百壽とは同い年)であり学生身分であるということに加えて、そもそもいとこ同士の関係上、四等身の血族結婚であることが問題にされ両家は大反対。結局この結婚は、やや態度を軟化させた了助を押し切って、最後まで承認しなかった花嫁の父親の参列がないままで、媒酌人を母方祖母ひろの弟夫婦がつとめての内輪の祝言が目白の自邸で執り行われた。母さわもこの結婚を快く思っていなかったとされる。結婚翌年、'27(S2)長女の美香子、'29(S4)長男の雄之介が誕生。近親結婚の負の兆候は雄之介を襲い、生後すぐに指の奇形は手術し快癒したが、三歳を待たずして原因不明の病気を引き起こし夭逝した(同墓)。
 '28 「文芸都市」の同人となり、井伏鱒二、梶井基次郎らと「新人クラブ」を結成。翌年「心座」を退き、井伏らと『新文芸都市』を創刊。他にも「蝙蝠座」「新興芸術派クラブ」「演劇学会」を仲間たちと結成して盛んに文芸活動に身を投じた。また徳田秋声の門下生になる。この間、拓殖大学と明治大学で講師を務めた。'38より明治大学教授をつとめている。
 雑誌「行動」に加わり行動主義・能動精神運動を進め、'34 小説『ダイヴィング』を発表。'35「文学界」同人となり、'38『木石』(ぼくせき)で文壇に認められた。
 戦後も旺盛な創作活動を示し、また日本文芸家協会理事として活躍。『新風平家物語』(1940)、『北村透谷』(1942)、『女の手』(1942)、『悉皆屋康吉』(1945)などを発表。'48 小説新潮に掲載した『雪夫人絵図』(〜'50)をはじめとする風俗小説で人気を得る。
 '48 日本文芸家協会理事長、'49 芥川賞選考委員、'50 文部省国語審議委員なども務めた。芥川賞選考委員は第21回(1949年・上半期)からを務め、選考委員の重鎮として君臨。体調不良(翌年逝去)で、1975年・上半期(第73回)を最後に辞任するまで務めた。舟橋は「芥川賞は、やはり定評のない新人を、委員各自の自由な視覚から、ムキになって推挙し合うところで、はじめて活況を呈することになるのだろう」と述べており、新人の格や覇気などにも言及し厳しい選考を行い「該当者なし」も度々あり、大岡昇平(7-2-13-22)ら他の選考委員と選考基準で対立することもあった。
 '53 幕末の大老の井伊直弼を中心とした開国前後の動乱期の人間模様を描いた作品『花の生涯』を発表。この作品は、'63(S38)日曜夜放送のNHKテレビ大河ドラマの記念すべき第一回放送作品として放送された。翌年、彦根藩主井伊直弼の名を広めた功績により、彦根市として初の彦根名誉市民に選ばれた。なお「新・忠臣蔵」を原作とし、1999(H11)『元禄繚乱』(げんろくりょうらん)もNHK大河ドラマで放送された。
 '64 『ある女の遠景』で毎日芸術賞受賞。'66 日本芸術院会員。'67 『好きな女の胸飾り』で野間文芸賞受賞。相撲愛好家であることから、'69 横綱審議委員会委員長をつとめる。'75 文化功労者。翌年、三度目の急性心筋梗塞により逝去。享年71歳。没した同年、遺族は四万冊に及ぶ蔵書を彦根市に寄贈した。それに応えて、彦根市は井伊直弼開国記念館の一部に舟橋聖一文庫を開設。さらに、2007(H19)彦根城築城四百年記念文化事業にあわせ、新たに舟橋聖一文学賞を創設した。

<コンサイス日本人名事典>
<同伴者の本棚 自由人の系譜 舟橋聖一 「花の生涯」>
<『人間・舟橋聖一』丹羽文雄>
<人事興信録など>


墓所 墓所

*墓石は和型「舟橋家之墓」、裏面「平成九年九月一日建之」。左側に墓誌があり、行年4才で亡くなった聖一と百壽の長男の雄之介から刻みが始まる。父の了助の戒名は理祥院殿青缶日了居士。母は さわ(M9-S49.4.21:渓秀院殿妙澤青玲大姉)。聖一の戒名は文篤院殿青海秀聖居士。舟橋鏡一(H8.3.10歿・43才)、聖一の妻の百壽(H11.7.18歿・96才)、舟橋龍夫(H14.6.1歿・75才)が刻む。龍夫は聖一の一人娘の美香子の婿養子、鏡一は二人の子である。

*近藤陸三郎の長男、さわ の弟の近藤眞一は薬品貿易商や球磨川電気常務を務めた実業家。眞一の妻は鮎川義介(10-1-7-1)の妹なので、遠縁にあたる。


【妻妾同居】
 1981(S56)舟橋聖一没五年後に一人娘の舟橋美香子が刊行した『父のいる遠景』の回想記に下記のようなことが綴られている。「父に、母以外の愛人がいて、しかもその人が今、自分とくらしを共にしているという確固たる事実に対しても、それを受けとめる何の心構えも持ち合わせてはいなかった。ましてこのような関係が、それぞれにとってどれほど残酷なものであるかということも、私にはまだわからなかった。このとき、もし私がもっと大人になっていたならば、当然感じ方も違っていたであろうし、なりゆきは別の方向へと展開していたかもしれない。しかしいずれにせよ世間から非難を浴びた妻妾同居をめぐる一切のことの起りは、ここからはじまったのである」
 両家の反対を押し切って、いとこ同士で学生結婚をした舟橋聖一と百壽。しかし、舟橋聖一は新橋の年若い売れっ子芸者の伊藤カヨと深い仲となり、ただの一時的な愛人関係ではなく、周囲にも認知させる妾として、しかも戦後の時代に於いて「妻妾同居」を実践していた。同じ屋敷の中の離れ家に住まわせていたので、同居とはいえ生活を共にしていたのではなく聖一が部屋を行き来していたというのが正しい。
 舟橋聖一が亡くなった日、葬儀に愛人の伊藤カヨを参列させるかどうか家族で話し合いがもたれたという。妻である百壽は「そんな必要はない」と言いそうなところ「私もそうした方がいいと思ってたのよ」という返答し、聖一の愛妾になってから三十年の伊藤カヨにも別れの場をつくってあげることに同意したという。ただ、葬儀の場であると人の目があるため、その話し合いがされた当日(お通夜の前日)に来てもらい最期の別れをしたとのことである。



第72回 NHK大河ドラマ第一回放送作品「花の生涯」舟橋聖一 お墓ツアー


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