メイン » » » 仁藤友雄
にとう ともお

仁藤友雄

にとう ともお

1911.9(明治44)〜 1998.2.24(平成10)

昭和・平成期の教育者

埋葬場所: 11区 1種 16側 17番
(信濃町教会員墓)

 東京市神田区錦町(東京都千代田区神田錦町)出身。自転車業界で名を知られた仁藤商会店主の仁藤安二郎の5男として生まれる。兄(長男)の仁藤信一は仁藤商会を引き継ぐ。兄(二男)の仁藤信次は建築家。兄(三男)の三郎は室田家に養子に出て室田三郎として東京帝大医学部を卒業し医院を経営。弟(六男)の仁藤正俊は毎日新聞記者を経て北海タイムス社社長、日本武道館事務局長。
 東京府立第一中学校、東京府立高等学校理科甲類を経て、1936(S11)東北帝国大学理学部数学科卒業。専門は数学教育。仙台育英中学校教諭となる。'38 東京府立航空工業学校が開校するにあたり赴任し、'40 東京府立北野高等女学校の開校要因としても赴任し教諭を務めた。太平洋戦争時は、陸軍参謀本部の命令により、陸軍将校として砲弾弾頭の軌跡計算などの研究に従事した。
 戦後は教師に復帰し、戦後の混乱期において小学校から高校まで幅広い層の子どもたちを教育した。'51.5 東京都教育委員会人事部管理主事に就き、'56.4〜'59.3 東京都教育委員会指導主事を務めた。'59.4〜'65.3 本所工業高等学校長に就任。'65.4〜'72.3 墨田工業高等学校校長に就任。東京都江東工業教育共同実習所長も兼ねた。
 '72.3 定年退職後、同.4 日本電子工学院常勤講師(〜'86.3)及び、本田技研工業の嘱託、東京電気大学非常勤講師(〜'81)を務める。'74 より拓殖大学非常勤講師(〜'81)。'86 より松戸市立看護専門学校専門課程講師(統計学)、日本工学院専門学校非常勤講師など多彩な教育活動を行った。80歳を過ぎても亡くなる直前まで近所の学習塾で教壇に立ち続けた。
 青年の時期から信濃町教会に在籍し、長年、信徒の教育や聖書研究に献身。晩年は長老として教会の運営に尽くされた。自宅の書斎でギリシャ語の聖書を翻訳中に、机に向かって筆を持ったまま、うつ伏せに倒れ昇天。享年86歳。60代に発症した持病の心筋梗塞が再発したことによるものとされる。正7位、従4位追贈。

<TDC研究室「仁藤友雄先生はじめ7兄弟、仁藤商会の痕跡」>


墓所 墓所 墓所
墓誌 右 墓誌 右側 (*クリックで拡大)
墓誌 中央 墓誌 中央(*クリックで拡大)
墓誌 左 墓誌 左側(*クリックで拡大)

*墓石正面「信濃町教會員墓」。左側に墓誌が三基建つ。真ん中の墓誌の上の段右から十六番目「仁藤友雄 一九九八 二 二四」と刻む。妻は妙子(旧姓は樋口)。妙子は友雄と同じ真ん中の墓誌の上の段右から四番目「仁藤妙子 一九九五 二 一五」と刻む。なお二人の間に二男三女あり。

*「信濃町教會員墓」には、創立者で牧師の高倉徳太郎、高倉を支え「韓国の恩人」と称された教育家の桝富安左衛門、新教出版社初代社長の長崎次郎、3代目信濃町教会牧師で聖書学者の山谷省吾、心理学者の細木照敏、作家の仲町貞子(井上奥津)、詩人の石原吉郎(以上・右の墓誌に刻む)、2代目・4代目信濃町教会牧師の福田正俊、物理有機化学者の高橋詢(以上・真ん中の墓誌に刻む)、建築家で建築学者の外山義、神学者で文芸評論家の井上良雄、宗教学者で哲学者の宮本武之助、キリスト教学者の小川圭治、「福音と世界」編集長の森平太(森岡巌)(以上・左の墓誌に刻む)らも同墓に眠る。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。