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すみとも かんいち

住友寛一

すみとも かんいち

1896.5.23(明治29)〜 1956.12.24(昭和31)

大正・昭和期の画家、美術品収集家

埋葬場所: 19区 1種 13側 102番

 父は男爵の住友吉左衛門友純(住友家15代当主)・母は住友吉左衛門友親の長女の満寿、その長男として生まれる。 弟に16代当主となった住友吉左衛門友成や住友元夫。伯父に徳大寺實則(8-1-1-1)、西園寺公望(8-1-1-16)がいる。
 繊細鋭敏な資質で、芸術宗教に心惹かれ、事業には興味を示さず、若くして絵画に傾倒したため廃嫡され、1916(T5)分家。 分家する前は、'12より寛一の補導係に就任した黒崎幸吉(後の聖書学者)に面倒を見てもらっており、二人は'15一年間渡米している。 分家以降は好みの芸術・宗教を愛し、画家・美術品収集家として過ごす。鎌倉の自邸に伊東陶山親子を招いて作陶、また岸田劉生(12-1-11-11)とも交流を持った。 親交のあった米津嘉圃は「その生活態度は世俗を超越して芸に遊ぶ、中国文人高士の姿を彷彿させるものがあった。 孤独と純粋を愛する人で、美と醜を分かち真偽を瓢別する非凡な能力の所有者であった」と寛一のことを語っている。
 '60(S35)旧住友財閥住友家の美術コレクションを保存展示するための機関として財団法人泉屋博古館が設立。 収蔵品は、住友吉左衛門友純が収集した中国古代青銅器類の他は、寛一が収集した中国書画が中心である。 特に中国の殷、周時代を中心とした青銅器、日本・中国の銅鏡、仏像、明・清時代を中心とした中国書画などが名高い。 また鎌倉市の景観重要建築物「村上邸」の茶室は、鎌倉にあった寛一邸から移築したものである。 著書に『無為庵製陶図録』(1926)、『南田と石濤』(1953)がある。享年60歳。

<日本の名門1000家>
<徳川葵様より情報・写真提供>


【住友家 寛一から見た系譜】
 寛一から見て母方の祖父が明治維新後の住友財閥を形成した住友吉左衛門友親である。 しかし、男の子に恵まれず、長女の満寿と、徳大寺公純の末子の友純が養子となり家督を継ぎ、住友吉左衛門友純を名乗った。 友純の兄が徳大寺實則、西園寺公望、中院通規である。よって、寛一からは父方の伯父にあたる。
 寛一の兄弟は、長女の孝は子爵の鳥居忠文の子の忠輝と結婚し、忠輝は養子となり住友名を名乗る。住友忠輝は住友本社の取締役を歴任。 なお、忠輝の兄は鳥居忠一(12-1-7-1)である。寛一の弟の次男は友成。'26(T15)若干17歳で家督を継ぎ、住友吉左衛門友成となる。 友成はアララギ派の歌人でもあり、雅号は泉幸吉である。友成は西園寺八郎(8-1-1-16)の娘の春子と結婚したが、男子に恵まれなかったため、弟の住吉元夫の長男の芳夫を養嗣子に迎えた。
 寛一は皆川宗光の娘のキミ(同墓)と結婚し、4男2女をもうけた。長男の住友務(同墓)は、住友ビジネスコンサルティングと住友オーストラリア開発の会長を歴任した。 住友務の長男の進(日本電気)の妻の揺子は東曹産業社長の岩瀬徳郎の二女。岩瀬徳郎の父の徳三郎は、東洋曹達工業社長である。 岩瀬徳郎の長女は、キッコーマン醤油一族である11代茂木七左衛門の養子の賢三郎に嫁いでいる。 また、住友務の妹の文子は、ミツワ石鹸社長の三輪善雄に嫁いでいるが、善雄の妹の佐登子は、キッコーマン醤油10代社長の茂木佐平治に嫁いでいるので、寛一一族は、茂木一族と二重結合の閨閥関係にある。
 住友務の弟の勝(同墓)は、関東電工会長の浅野八郎の娘の桃枝を娶っている。 浅野八郎は浅野財閥二代目総帥の浅野総一郎の三男である。二代目総一郎の妻の千代子は、自由民権運動の政治家である板垣退助の娘である。


すみとも かんいち

*墓石正面は「住友家之墓」。裏面に昭和三十五年五月 住友務建之。

*墓誌には、住友寛一、キミ、望、務、妙子、融、勝の刻みがある。


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