徳大寺公純(きんいと)の長男、西園寺公望(8-1-1-16)の兄、公爵の徳大寺公弘も同墓場に建つ。1862(文久2)権中納言、国事御用掛となり、翌63議奏に進んだが、同年〈8月18日の政変〉で罷免される。
68(M1)参与、議定、内国事務総督となり、権大納言に任ぜられる。70山口藩内訌に宣撫使として出向。71宮内省出仕を命ぜられ、侍従長となり長く明治天皇の側近に奉仕した。
この間華族局長、爵位局長を歴任、91内大臣を兼任。明治天皇の没後辞職した。従一位大勲位。享年81歳。
*谷中墓地より改葬。
*實則は1884(M17.7.7)侯爵を授爵し、1911(M44.4.21)公爵を授かった。
*實則の妻の山内嘉年子(嘉年姫)の父は土佐藩十二代藩主の山内豊資である。その六女として生まれた。なお、初代藩主は山内一豊である。2006年NHK大河ドラマの『功名が辻』山内一豊の妻で注目。
【徳大寺家】
清華家の家格を有する公家。家紋は木瓜花菱浮線綾を使用。笛を家業とした。
藤原氏北家につながる太政大臣の公季(きんすえ)を祖とし、公季の四世の公実(きんさね)の子の公能(きんよし)が京都の衣笠山の麓に徳大寺という寺をたてたのにちなんで徳大寺の家名をなのった。
その後、徳大寺は等持院に吸収されたらしい。また、三条公実の五男の実能を祖に平安後期に創立した説もある。
江戸時代の宝暦年間、徳大寺公城の父の代から仕えていた竹内式部という学者がいた。
この竹内式部は和学を研究して家塾をひらき、公卿を相手に神書(日本書紀の神代巻)を講義した。
これが、神代の歴史を考究していけば、いずれは武士なき世を称賛する思想につながるとされ、
幕府を怒らせ、さらに吉田家や白川家から、神道職の神聖を侵したと訴えられ、
式部は京都から追放されたという「宝暦事件」を起こした。
式部の主人として徳大寺公城にも責任が問われ、永蟄居(えいちつきょ)の処分をうけ、許されるまでの二十年間を一歩も外出せずに堪えた歴史がある。
徳大寺公純(きんいと)は鷹司家からの養子として徳大寺家を継ぎ、右大臣として活動した。
その徳大寺公純を父とし、母、竹島の長男が實則である。
兄弟は、西園寺公望(8-1-1-16)、福子(夫:加藤泰秋)、永(夫:相良頼基)、中院通規(伯爵)、中子(夫:相良頼紹)、末松威麿、照子(夫:阿部正功)、住友友純(吉左衛門・男爵)。
徳大寺實則を父とし、嘉年子を母とした子供は以下である。
徳大寺公弘(同墓・継承)、高千穂宣麿、順子(夫:公爵 鷹司熙通)、祚子(夫:佐竹義生)、蓁子(夫:三井高縦)、則麿(分家・男爵)、治子(夫:松平頼孝)、彬麿(分家・建築家)、伊楚子(夫:公爵 島津忠重)。
徳大寺公弘は松平典則の四女の久子の間に徳大寺実厚を生んだ。
実厚(1889〜1970)は陸軍騎兵中佐、掌典長、貴族院議員(公爵議員としてS12〜S21)、戦後は平安神宮宮司などを務めた。
実厚は松平直之の二女の米子と結婚し、公英、嬉子、斉定、純明を生んだ。斉定夫人の美智子は、賀陽宮恆憲王第一女子である。
家督を継承している徳大寺公英は美術評論家である。
【徳大寺家の墓所】
正面に「徳大寺實則」の墓石が建ち、その左側に實則生母の「徳大寺竹島」(M34歿)の墓石が建つ。
右側には實則の妻の「山内嘉年子」(M12歿)の墓石が建つ。
右側に實則長男の「徳大寺公弘」(S12.1.4歿)と公弘の妻の「徳大寺久子」(S16.11.1歿)の墓が建つ。
正面から左側には、實則御妾の「勝田八重子」、早死した三人の子供である「徳大寺篤麿」(六男)、「徳大寺裕子」(五女)、「徳大寺泰麿」(四男)の墓が並んでいる。
各墓石の正面には俗名を刻む。公弘墓のみ右側面に続柄を、左側面に没年を刻むが、他の墓は逆に左面に続柄、右面に没年を刻む。実則と公弘の二当主の墓は同寸法であるが、塔身高は実則墓が29センチ高く建造されている。手前の左右の花立には徳大寺家の『木瓜浮線綾唐花』紋が彫出されている。
*当初の同家の墓所は京都の十念寺であったが、明治16年に死去した26代当主の公純の墓所以後、京都の黒谷墓地に変わった。29代当主の実厚は多磨霊園ではなく、黒谷墓地にある。
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