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わたなべ ちふゆ

渡邊千冬

わたなべ ちふゆ

1876.5.1(明治9)〜 1940.4.18(昭和15)

明治・大正・昭和期の政治家、実業家、子爵

埋葬場所: 14区 1種 1側 10番

 長野県松本出身。父は宮内大臣を務めた伯爵の渡邊千秋、その三男として生まれる。後に叔父で大蔵大臣を務めた子爵の渡邊国武(同墓)が生涯独身で跡取りがいなかったため、養子となり後を継いだ。
 幼少の頃は実父の千秋の赴任先について行っていたため、父が鹿児島県令の時には鹿児島の幼稚園に通い過ごした。その後、滋賀、北海道、東京と転々とする。 高校時代は不勉強で成績が悪く、退学問題まで起こしたが、東京帝国大学に入るや、一転し一年で一番となり父親を驚かせたという。 父の千秋、叔父の国武と役人であったため、それを嫌い、大学卒業後、フランスへ留学した。帰国後、電報新聞社主筆や日本製鋼所、北海道炭鉱汽船などの各取締役を務め、日仏銀行東京支店支配人となった。 この頃、養父の国武は大蔵大臣だったが、予算編成を巡って閣内が対立、首相の伊藤博文が内閣不統一を理由に内閣を投げ出し、各閣僚もこれに追随して辞するも、国武だけが反対、このため西園寺公望(8-1-1-16)が臨時首相となり、国武を論旨免官したため、大蔵省を追われ、失意のどん底にあった。 これをみた千冬は、養父の国武の窮状を救うため、実業界を捨て、政界に転進する決意を固めた。
 1908(M41)衆議院議員選挙に出馬。四千三百七十三票で三位当選した。満30歳、日本一若い代議士となる。政友会に入党。 しかし、'12総選挙で膨張した政友会が、千冬が地盤として頼みにしていた地域から、地元人を擁立したため、再選への道が断たれ、一期限りで衆議院への出馬をとりやめ、一端、政界から離れた。
 千冬は養父の国武が子爵であったため、貴族院での政界復帰の道を考えた。当時の貴族院は(1)皇族、(2)公侯爵、(3)伯子男爵、(4)勅選議員、(5)学士院会員、(6)多額納税議員の六分野から選出され、その定数は350人。 庶民に頭を下げなければ当選出来ない衆議院と違って貴族院は政治力さえ発揮すれば華族議員はたやすく当選できた。'19(T8)国武が没し、後を継いで子爵を襲爵。 翌年、貴族院議員に選ばれ再び政界に乗り出した。衆院の経験を持つ貴族院は数えるほどであったため、千冬はたちまち会派の研究会では幹部におさまった。 '23清浦内閣が誕生したが、軍部大臣以外の閣僚が貴族院で占めたため、「特権内閣」「貴族内閣」と呼ばれた。 これに対し、衆議院は、政友会から分裂した政友本党が内閣を支持したが、それ以外の憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派は組閣の途中から広範な倒閣運動に乗り出した。 この倒閣運動には新聞記者団も加わり、抗議のため貴族院研究会へ乗り込んだことがあった。これに応対したのが幹部の千冬であり、二院制度を認めている日本の憲法をタテにして貴族院の立場を一歩も譲らない対応が、「貴族院の野武士」と評された。 一方、貴族院の中では、階級社会の絶対性、正副議長は公侯議員、会派の幹部もこれらの議員で占めて重要事項を決定、決議拘束主義で他の議員に発言の機会を与えない。 この幹部専制を批判し、院内に貴族院革正運動を起こした。また、清浦内閣を支持した政友本党と連携、政友会に不満を持つ憲政会、新正倶楽部も糾合する政界再編の影武者の役割も演じた。 これが、'27(S2)民政党結成へとこぎつける原動力ともなった。千冬は民政党結成に手をかしたものの、貴族院議員という立場から民政党に加入しなかった。
 '29(S4)浜口雄幸が首相となり民政党内閣が発足する際、首相直々にどこの党にも属していない千冬に司法大臣としての入閣を談判した。 当時は昭和恐慌による経営不安定、汚職事件の問題等を抱えており、浜口内閣はこれらをいかに処理するかが政治課題であった。 そこで、どの政党にも所属しておらず、何者にも恐れずに厳正公正に事件処理に当たれる立場を期待して、千冬を司法相に起用し、世の批判を浴びていた汚職・疑獄の徹底的究明を託された。 千冬は期待通り徹底捜査を検察当局に命じ解決していく。司法相在任中に検挙した事件は次のものがあげられる。売勲汚職、私鉄疑獄、越鉄疑獄、毛識疑獄、東京市疑獄事件、朝鮮疑獄。 文相を務めていた小橋一太(16-1-2-2)は越鉄疑獄で検挙され辞職している。浜口首相が凶弾に倒れ総辞職するも、'31第2次若槻内閣が組閣されるも司法相を留任、引き続き汚職の徹底究明に当たった。
 '36(S11)現在の国会議事堂が完成したとき、千冬は貴族院の各会派を代表して新議事堂初の記念演説をした。軍国主義の台頭によって編狭な国家主義が横行するなかで、堂々と「知識尊重」をテーマに知識の重要さを述べた。 晩年は、承久の乱(1222)によって19年間にわたり隠岐島に幽閉された後鳥羽上皇の遺跡が荒れ果てているのをみて、隠岐神社の創建を主唱して、完成させた。 また、養父の国武が開発した栃木県太田原市の渡邊農場70ヘクタールを小作人のために全て解放した。'39平沼騏一郎(10-1-1-15)首相より、枢密顧問官に任ぜられた。 同年.10.26勲一等瑞宝章授章。この間、大阪毎日新聞社取締役、関東国粋会総裁を歴任。享年64歳。戒名は大観院殿正法無剣大居士。 子に子爵を継いだ大蔵官僚の渡邊武、理論物理学者の渡邊慧(14-1-3)がいる。

<コンサイス日本人名事典>
<「信州の大臣たち」中村勝実>


*西園寺公望の別荘「坐漁荘」の命名者でもある。大公望が渭江の岸に坐って釣をした故事にならっての命名という。

*墓所は正面に「渡邊家之墓」、右側に「渡邊千冬墓」が並んで建つ。



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