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わたなべ くにたけ

渡邊国武

わたなべ くにたけ

1846.3.29(弘化3)〜 1919.5.11(大正8)

明治期の大蔵官僚、政治家、子爵

埋葬場所: 14区 1種 1側 10番

 信濃国諏訪郡長地村東堀(長野県岡谷市)出身。諏訪高島藩士の斧蔵の二男に生まれる。 旧暦の弘化3年3月3日生まれであるが、武士の父親は「男の子が桃の節句に生まれたのでは具合が悪い」と、5月5月の端午の節句生まれとして届け出たという。 のち養子にゆき小池姓となったが、1878.9(M11)姓を「渡邊」に戻す。正しい漢字表記は渡邊國武。字、無辺侠禅。実兄は伯爵の渡邊千秋(神奈川県総持寺・中央ハ1-23)。
 両親と早くに死別し、兄の千秋と共に祖母に育てられた。10歳のときコレラに感染したが一命を取り留める。15歳の時に藩学の長善館に入った。 次いで、松代藩の佐久間象山の門を叩こうとした時、象山が京都で殺害されたため、江戸に出て藩邸につとめ、フランス語などを学んだ。 1868(M1)高島藩主の諏訪忠礼が京都御所警備を命じられたことで、国武も京都に上がり、御所の警備についた。 警備中に鑑札を忘れた薩摩の大久保利通に対して「大久保であろうとも、鑑札を持たぬ者は通さぬのが私の役目」と入門を拒否をした。 大久保は引き返し、改めて鑑札を携え入門したという。大久保はここで職務に忠実な国武を知り、これが縁となって間もなく国武は大久保に引き立てられた。
 1871廃藩置県により伊那県出仕となる。大久保は、伊那県知事として赴任した永山盛輝に連絡をし、兄の千秋とともに国武を中央官庁の民部省に抜擢した。 1874大蔵省租税寮勤務を命じられ、翌年、地租改正局兼務となった。この時の大蔵大臣が大隈重信、租税頭が松方正義、地租改正局総裁が大久保利通で、この事務局長が松方。 大久保は租税改正の大事業の推進者として、国武に期待をかけた。統一国家としてスタートした明治政府は財政的基礎の確立を目指していた。 各藩ごとに異なる旧来の税法を廃止し、新たに統一的税制を導入するため打ち出されたのが「地租改正条例」であった。 主な内容は、(1)石高に税を課すのではなく、土地の価値に対し一定の割合で賦課する。(2)税率は地価の百分の三。(3)従来の現物納を金納に改める。 国武が地租改正事業に取り組んで間もなく、国内は征韓論で大きく動き、佐賀の乱や板垣退助が設立した土佐立志社による薩長の専制への攻撃など、各地に反政府的な自由民権運動が盛り上がった。 1876事態を早急に鎮圧するため、自由民権運動の総本山、高知対策の最高指揮官として国武が抜擢され、高知権県令に任命された。 国武が30歳の時である。任期は1876.8.26~1879.6.6。最初、高知権令であり、国武は「国武未だ死せず、請う意を安んぜよ」との回答のみで、大久保に細かな報告をせず、1877西南戦争が勃発し土佐立志社では西郷に呼応して挙兵する動きが始まるも、中立社に自ら加入し、県庁内から立志社員を追放。また土佐州会に対し、土佐国各大区連合区会の改称にあたって、設立不許可を命じるなど民権運動を抑圧したため、土佐の挙兵策は実現せずに西南戦争が終わる。 この功により、1878より徳島県を併合し、高知県令に昇進。だが、翌年、地方行政の改革のためにと、群の合併を断行したところ、内務卿の許可を踏んでいないと中央から責められ、昨年の大久保の暗殺もあって、役人稼業に嫌気をさし辞任。 京都の郊外にひきこもり、晴耕雨読の生活に入った。隠とん生活は3年間に及び、その間、英仏独の三ヶ国語を習い、寺に通って一切経五千巻を読破した。
 1881(M14)国武に期待をしていた松方正義が参議大蔵卿になったことを機に、福島県令に登用され官界に復帰。翌年、大蔵省に戻って調査局長、ついで1886主計局長、1888大蔵次官とスピード昇進をした。
 1892(M25)品川弥二郎内務大臣による選挙大干渉によって、死傷者をも出す混乱となり、選挙結果も政府支持党(吏党)が惨敗したことで第1次松方内閣は総辞職し、後継内閣は第2次伊藤博文が組閣した。 難局を打開するために、明治の元勲総出動の超大物内閣を組織した。司法大臣・山県有朋、逓信大臣・黒田清隆の首相経験者をはじめ、外務大臣・陸奥宗光、内務大臣・井上馨、陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・仁礼景範、農商務大臣・後藤象二郎、文部大臣・河野敏鎌。国武は大蔵大臣として初入閣した。 46歳であり閣僚の中で最も若い大臣となる。また藩閥外の純然たる事務官から大臣に進んだ史上初のケースであった。加えて長野県および信州政治史上初の大臣となる。 しかし、内閣発足以来の国政の重要課題である予算と外交を握る大蔵大臣は一貫して松方が就いていたため、国武の抜擢は世間の不安を持たれていた。 一時(1895)、逓信大臣も兼務。蔵相就任初の第四議会にて、国武は前年度に比べ三百万円増の八千三百七十余万円の新予算案を提出、前議会からもめていた軍艦新造費も計上した。 野党の反対に対して「本年の予算案は節すべきはすでに節し、減ずべきはすでに減ぜり。一銭一厘たりとも応じ難し」と言い切る。 このため、議会はさらに反発し、五日間の休会についで十五日間の停会という騒ぎとなった。この騒動で衆議院は天皇への上奏案を可決し、議会解散か内閣総辞職かという危機に追い詰められる。 このとき突然、明治天皇自ら内廷費三十万円を六年間支出し、役人も棒給の十分の一を献納して製艦費にあてるという詔勅が下り、野党は予算案を認めざる得なくなり、この危機を脱した。議会で大見えを切った国武の言葉「一銭一厘不可減、一人半人不可減」は流行語となった。
 1900第四次伊藤内閣でも大蔵大臣を留任。だが官業中止、事業を繰り廷べして酒税、砂糖税、葉煙草専売収入の増微案を内容とする緊縮財政案を提出し、世論から非難を浴びた。 憲政本党の賛成で衆議院は通過させたが、貴族院で反対、紆余曲折あったが、最後はまたも明治天皇の勅語で増税案による二億五千万円という歳出を承認させ、危機を脱した。 しかし、内閣は不統一の連続で、1901伊藤首相は辞表を提出。全閣僚もこれにならったが、国武だけは拒否、伊藤に辞表撤回を求めたり、宮中に参内し将来の財政計画について所信を披露したりしたが、西園寺公望(8-1-1-16)が臨時首相に命ぜられると、国武は論旨免官となって、大蔵省を去った。 その後、欧米に遊び、帰国後、日露戦争前では主戦論をとなえ、戦争後は講和条約反対論をぶちあげ、当局から警戒人物としてマークされる。以後は、政治から離れ、隠とん生活を送る。
 国武は生涯独身を通した。結婚しなかった理由は、鳩山由紀夫首相の祖父である首相も務めた鳩山一郎の母、春子に失恋したためといわれる。 春子は松本藩主・多賀幸右衛門の娘であり、若い頃、春子を見初め、一郎の父の鳩山和雄(後の法律学者・衆議院議長)と恋の争奪戦を演じた。 鳩山に春子を奪われ、失恋の情やるかたなく、強情にも終生を独身で通し、妹に世話になっていた。 このため、子供に恵まれなかったため、兄の渡邊千秋の三男である千冬(同墓)を養子とした。麻布の自邸で悠々自適の余生を送る。正3位。享年73歳。没後、勲一等旭日大綬章が追贈された。

<コンサイス日本人名事典>
<高知県人名事典>
<日本歴代知事総覧>
<日本の名門1000家>
<「信州の大臣たち」中村勝実>


*国武は日本の土台を作った政治家としての功により1895.8.20(M28)子爵の爵位を授爵した。国武の後を継いだのは、養子で政治家として活躍した千冬。千冬没後、子爵を継いだのは、戦後駐米公使やアジア開発銀行総裁などを務めた渡邊武である。

*実兄の渡邊千秋は多くの県知事や宮内大臣を務めた伯爵。その千秋の長男の千春は大山巌の四女の留子と結婚、家督を受け継ぐが、早死したため、その子であり孫の渡邊昭が継いだ。 昭は昭和天皇の最後の御学友として知られ、貴族院議員やボーイスカウト日本連盟第7代総長を務めた。昭の子の渡邊允(まこと)は外交官、侍従長。 千秋の三男の渡邊千冬は国武の養子となり政治家として活躍。千冬の長男の渡邊武は大蔵官僚、子爵を継ぐ。次男の渡邊慧(14-1-3)は理論物理学者。 千秋の長女の千夏は、銀行家の塩川三四郎(6-1-16)に嫁ぐ。塩川の三男の金城が野依辰治の養子となり、その子がノーベル化学賞を受章した野依良治である。 野依良治は曾孫にあたる。慶応大学教授で生物心理学者の渡邊茂も曾孫にあたる。

*墓所は正面に「渡邊家之墓」、右側に「渡邊千冬墓」が並んで建つ。なお、渡邊国武の本墓は東京都港区の金地院にある。


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