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しおかわ さんしろう

塩川三四郎

しおかわ さんしろう

1873(明治6)〜 1965.5.3(昭和40)

大正・昭和期の銀行家

埋葬場所: 6区 1種 16側

 長野県出身。塩川仁助の三男。1899(M32)東京帝国大学政治学科を卒業し、大学院で学ぶ。後、大蔵大臣秘書官に任じ、次いでこれを辞し、元蔵相渡辺国武(14-1-1-10)に従い欧米を視察。更にオクッスフォード大学で政治経済学を修め、銀行実務を学ぶ。
 帰国後、日本銀行に入り、検査役、秘書役、営業局勤務、大阪支店在勤、京都出張所長、名古屋支店長、国庫局長、倫敦代理店監査役、調査局長を歴任。次いで北海道拓殖銀行副頭取営業第一部長兼第二部長に就任。さらに芸備銀行頭取、広島商工会議所議員を務める。

<昭和人名辞典(大衆人事録)>
<人事興信録>
<MATHU様より情報提供>


*石の蔵状「塩川家之墓」。裏面に「昭和十年四月 塩川三四郎 建之」。墓所右側に墓誌がある。妻は伯爵の渡辺千秋の3女の千夏子。墓誌の刻みは、三四郎と千夏子の二男の塩川佐久雄から始まり、長男の塩川三千勝、千夏子、三四郎、三千勝の妻の妙子。

*1936(S11)塩川三四郎の編集で『佐久雄の面影 故塩川佐久雄追悼出版』を限定200部の非売品として出している。

*妻は渡邊国武の兄で伯爵の渡邊千秋の長女の千夏(1945.7.18没 同墓)。長男の塩川三千勝(みちかつ 1905.12.30-1940.2.18 同墓)は一高時代の1924.5(T13)浜田和雄と佐藤捨三の三人で、赤石岳の積雪期初登攀(とうはん)を達成。次いで、'26田辺和雄と石原巌の三人で、鹿島集落から爺ケ岳をへて鹿島槍ヶ岳の積雪期初登攀を達成した登山家。三千勝の妻は財界人である足立正(1883-1973)の長女の妙子(1910.10.13-2005.7.26 同墓)。三男の金城(かねき)は三井生命保険初代会長の野依辰治の養子となり、鉄道省経理局長の野依次郎の娘の鈴子と結婚(辰治夫妻に跡取りがいなかったため、金城を養子縁組して長女の鈴子をめとらす)。その子がノーベル化学賞(2001)を受章した野依良治(1931-)である。よって孫にあたる。なお、野依金城は東京帝国大学工学部で亀山直人(10-1-15-23)を師事し応用化学を学ぶ。鐘淵紡績に入社し、戦後は鐘淵化学工業(カネカ)に移り、技術研究者として活動し、専務となった。


※2022年9月、情報提供をいただき墓所地が更地になっていたことを確認しました。後継者がいなくなるため「墓じまい」をし小平霊園の「小平霊園合葬式埋蔵施設2号基」に移されました。「墓じまい」の場合は施設変更制度というのがあり、多磨霊園の合葬施設は既にいっぱいであるため、小平霊園か八柱霊園の合葬施設に無料で納骨ができます。この制度を利用されたと推察します。なお「歴史が眠る多磨霊園」は故人を通して歴史を学ぶコンセプトであるため、ページは残します。

<「塩川家について」中野非公式リポート>


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