高知県出身。陸軍中将の岡田重久(同墓)の長男。弟の岡田重美は陸軍大佐。1919.5.28(T8)陸軍士官学校卒業(31期)。同期に有末次(後の中将:22-1-22)、公平匡武(後の中将:22-1-86)、臼井茂樹(後の少将:15-1-15)、八里知道(後の少将:16-1-12)らがいた。'29(S4)陸軍大学卒業(41期)。
'37.10.20(S12)第10軍参謀(情報主任)。'38.3.1関東軍参謀(作戦主任)。'39.3.9参本庶務課長を経て、同.8.1大佐に昇進し、同.10.12参本作戦課長となった。
'40.9.28歩兵78連隊長。'41.10.15人事局補任課長、この時に太平洋戦争が勃発。'43.8.2少将に累進し、'44.7.28人事局長に就任。
'45.2.1北支方面軍事参謀副長となり北京に赴き、同.4.7支那派遣軍参謀副長として主に華北方面の作戦に従事した。現地で終戦を迎える。功4級。
【米内内閣倒閣の裏】
戦後('60)の回想録で、米内光政内閣が総辞職した顛末を語っている。
1940.1.16昭和天皇自らが米内を首相に薦め誕生した内閣である。昭和天皇は軍部や世論が日独伊三国同盟に後押ししている状況を打破するため、親米英派の米内を任命。
組閣の際に、陸軍大臣の畑俊六に陛下自らが『この内閣に協力するよう』との御言葉があり、畑自身が協力すると答えていた。
しかし、同年.7.22 陸軍は軍部大臣現役武官制による倒閣を計画し、陸軍大臣の畑俊六を辞任させ、後継陸相を出さず、内閣総辞職させた。
当時は第二次世界大戦真只中であり、ヨーロッパではドイツが連戦連勝、フランスをも降伏させており、陸軍内ではそのドイツとイタリアと手を組む機運が高まっていた。
それに対して、和平路線の米内内閣は厄介であり、参謀総長であった閑院宮元帥が畑陸相に対して辞職を薦め、「陸軍大臣を出さず、米内内閣をぶっ倒せ」と指示を出した。
役職的に参謀総長よりも陸軍大臣が高いのだが、閑院宮元帥は皇族であり絶対であるため、その指示を飲まざるをえず、倒閣に消極的であった畑陸相は従ったとされていた。
しかし、実際は陸軍の中堅将校が結束して意見具申をし、閑院宮が畑陸軍大臣の辞職を薦めたのであった。
参謀本部の次長の沢田茂中将、第一部長の富永恭次少将、第一課長の岡田重一(本人)大佐、第二部長の土橋勇少将、陸軍省次官の阿南惟幾中将、軍務局長の武藤章少将、軍事課長の岩畔豪雄大佐、軍務課長の河村参郎大佐らが共謀し、75歳の高齢で実務的にロボットであった閑院宮参謀総長を説得。
閑院宮参謀総長は、陸軍部内大多数の意見が内閣の更迭を必要とするのであれば、畑陸相には気の毒であるが、国家の大事のため、このさい非常手段をとることも止むを得ないと採決した。
天皇に米内内閣に協力する約束をしているため、畑陸相の立場も考慮し、皇族であり陸軍の最長老である閑院宮参謀総長から強い要望を出すことが、畑陸相を倒閣に踏み切らせる最も容易な手段であると考えた。と、回想し告白している。