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きみひら まさたけ

公平匡武

きみひら まさたけ

1898.7.19(明治31)〜 1944.7.18(昭和19)

大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 22区 1種 86側

 東京出身。1919.5.28(T8)陸軍士官学校卒業(31期)。同期に有末次(後の中将:22-1-22)、臼井茂樹(後の少将:15-1-15)、岡田重一(後の少将:21-1-5-1)、八里知道(後の少将:16-1-12)らがいた。同.12.25砲兵少尉任官。'22.11.28(T11)陸軍砲工学校を優等で卒業(28期)。'27.12.6(S2)陸軍大学校卒業(39期)。
 その後、フランス駐在など様々な要職を経て、'37.10.26日中戦争においての中支那方面軍参謀(作戦主任)に就任した。'38.2.15中支那派遣軍作戦課長、'39.3.9砲兵大佐に進級し、'40.1.10第14師団司附を経て、同.8.1野砲20聯隊長に就任した。'41.9.26第4軍高級参謀、'42.8.1第4軍参謀長を歴任し、'43.8.2少将に昇進し、同.9.11第8方面軍参謀副長となり、サイパン島の作戦に参加。
 '44.6.19作戦中に井桁敬治参謀長を助けるにあたり第31軍参謀副長に就任した。しかし、当時の陸軍の方針である上陸前の水際撃滅主義に沿って応戦撃退を図ったが、圧倒的な米軍の砲爆撃にさらされ後退を余儀なくされる。同.7.5合同戦闘指揮所は、ガラパンへの最後の総攻撃を敢行を決定。大本営に訣別電を発信。翌日、艦隊司令長官南雲中将、第43師団長斎藤中将、上司である井桁の3将軍は相次いで自決した。これと前後して辻村少将、辻北部支庁長なども相次いで自決した。夜半、鈴木師団参謀長、吉田参謀、平櫛参謀の3名が指揮し最後の攻撃を開始。同.7.7天明とともに敵火器は一斉に猛火を吐き、突撃部隊は次々倒れ、最後の玉砕攻勢は終結を告げた(サイパン島守備隊玉砕)。大本営は同.7.18サイパン島守備隊玉砕を発表した。この発表日が公平の命日とされている。享年45歳。従4位 勲2等 功3級。没後に1階級特進し中将となった。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


墓所

*墓所には墓石が二基建ち、左側が「公平匡武之墓」、右側が「公平家之墓」。「公平匡武之墓」の右面には「陸軍中将 従四位 勲二等 功三級 / 昭和十九年七月十八日 サイパン島に於いて戦死」と刻む。裏面は「昭和四十三年九月 / 公平 武 建之」と刻む。墓誌があり、公平匡武と妻は千江(1904.1.7-1978.3.19)のみ刻む。


【サイパン島守備隊玉砕】
 1944.6.15から7.6に行われた太平洋戦争中の戦闘・玉砕。米軍は6万を超える大部隊をもってサイパン島に上陸を試みた。対する日本軍は水際で阻止する作戦に出たが、米海軍の艦砲射撃により防衛陣地の多くが壊滅。救援にかけつけた日本海軍機動部隊も惨敗を喫し、制空・制海権を米軍が掌握した。日本軍は島内に籠り反撃を試みたが、ことごとく玉砕。島内の民間人も玉砕するなど、ほとんどが死亡した。

<太平洋戦争100名将>


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