北海道出身。屯田工兵大尉で京極農場支配人や村長を務めた有末孫太郎の子。兄の有末精三は陸軍中将、弟の有末四郎は陸軍軍医大尉。
上川中学を経て、1919.5.28(T8)陸軍士官学校卒業(31期)。同期に公平匡武(後の中将:22-1-86)、臼井茂樹(後の少将:15-1-15)、岡田重一(後の少将:21-1-5-1)、八里知道(後の少将:16-1-12)らがいた。同.12.25砲兵少尉任官、野砲兵第7連隊付。
'22.11陸軍砲工学校高等科卒業(28期)、砲兵中尉となり、'29.11.29(S4)陸軍大学校卒業(41期)し、大尉として独立山砲兵第1連隊付。'30.12参謀本部付勤務、'31.12参謀本部員(作戦班)、'33.12イギリス駐在、'34.6イギリス大使館附武官補佐官、同.8少佐となる。
'36.6陸軍大学教官、'37.5〜同.8.14東南アジア出張、帰朝後は参謀本部員、同.11中佐に進級し、大本営参謀、同.12参謀本部作戦課作戦班長に就任した。
'39.7.5参謀本部教育課長 兼 大本営参謀(教育課長 兼 研究班長)、同.8.1砲兵大佐に累進、同.9.7関東軍高級参謀(作戦課長)となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。'40.10.10〜'42.1.19参謀本部附・大本営参謀(大本営第20班長)、'41.2兼 軍令部員。
日米開戦には反対の立場をとり、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。太平洋戦争勃発後は、'42.2.20香港占領地総督部参謀長、同.11.2第17軍高級参謀を経て、同.11.9第8方面軍参謀(作戦課長)としてラバウルに赴任。
'43.8.2少将に昇進し、第8方面軍参謀副長に就任して今村均大将を補佐する。同.8.29要務打ち合わせのため一時帰国し、ラバウルへ飛行機で戻る途中で、ビスマルク諸島付近にて飛行機事故により戦死。享年46歳。翌日、陸軍中将に特進。功3級。