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やさと ともみち

八里知道

やさと ともみち

?〜 1949.11.24(昭和24)

大正・昭和期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 16区 1種 12側

 東京出身。八里家は代々加賀藩士であり、能美郡里川村字八里(現在の石川県小松市八里町)が発祥の地と思われる。八里知道は13代目当主。
 陸軍幼年学校を経て、1919.5.28(T8)陸軍士官学校卒業(31期)。同期に有末次(後の中将:22-1-22)、公平匡武(後の中将:22-1-86)、臼井茂樹(後の少将:15-1-15)、岡田重一(後の少将:21-1-5-1)らがいた。同.12.25砲兵少尉任官。'30.11.27(S5)陸軍大学校卒業(42期)。同期に今井一二三(後の少将:18-1-10)らがいた。
 砲兵将校として主に陸軍省参謀本部等の陸軍の中枢に永年勤務し、その間、大本営参謀、佛蘭西(フランス)駐在員などを歴任した。 '39.1.13(S14)稔彦王附武官、同.7.1遺独伊使節(寺内大将)随員(参謀第二部)、'40.8.1大佐に進み、兵本課長に就任した。 '41.7.16整備局工政課長、'42.10.9駐蒙軍高級参謀を経て、'44.8.1(S19)少将に昇進し、大東亜省駐蒙特命全権公使(墓碑には中華民国駐箚特命全権公使)に任ぜられ、終戦を迎えた。正5位 勲3等旭日中綬章。享年52歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<墓誌碑より>


*墓石は和型「八里家之墓」。左側に墓誌が建ち、戒名は護星院殿知道日誠居士。俗名、没年月日、行年が刻む。墓誌の裏面は八里知道の墓誌碑として略歴が刻む。妻は他来子。

*八里家の正墓は石川県金沢市寺町本性寺墓所であるが、八里知道が昭和十六年三月に、この地の多磨霊園に分骨して埋葬したと墓誌に刻む。


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