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たかばたけ もとゆき

高畠素之

たかばたけ もとゆき

1886.1.4(明治19)〜 1928.12.23(昭和3)

明治・大正期の社会思想家、哲学者、マルクス研究者

埋葬場所: 4区 1種 31側 23番

 群馬県前橋市出身。旧前橋藩士の子(5男)。旧制前橋中学在学中、前橋で行われた海老名弾正(12-1-7-18)や木下尚江の講演を視聴しクリスチャンになる。1906(M39)前橋中学卒業後、奨学金を得て、同志社神学部に入学し哲学と宗教を学ぶ。平民社系の社会主義運動の影響を受け、在学一年程度でキリスト教を捨て中退(一緒に脱走した仲間に遠藤友四郎や伊庭孝らがいる)。
 郷里の高崎に戻り、1908.5(M41)遠藤友四郎らと社会主義雑誌「東北評論」を発刊。しかし、同年、赤旗事件に対する筆禍に問われ、新聞条例により禁固二ヶ月の刑を受け入獄した。獄中で英訳のカール・マルクス著書の『資本論』に出合う。
 出所後、神戸、大阪、名古屋を放浪。妻の初枝(同墓)が京都で第三高等学校や同志社の英語教師をしていたケデーの家で賄い方(食事の世話をする担当)をしてた縁で、ケデー宅に居候をさせてもらっていた。ケデーのツテで夜間学校の英語教師も務めた。この頃、社会主義者として既に著名であった堺利彦と親交があり、堺からカウツキーの『倫理と唯物史觀』の英譯本が郵送で届く。購了し批評的な感想文とともに返送。それを読んだ堺は高畠の将来に渇望したという。
 堺利彦が赤旗事件で二年程入獄し、'11 春に出獄。大逆事件で亡くなった同志の遺族を歴訪し全国をまわっていた時に京都で高畠と会う。堺が「売文社(賣文社)」の経営再建をするために東京に戻る際に、技手として雇いたいと誘われ上京。同.9 売文社に入り社会主義活動に身を挺する。英語だけでなく独学でドイツ語を習得していたため、売文社では英独語の反譯(翻訳)を主として行った。その後、通勤時間を利用してロシア語習得も目指したが断念。フランス語には手を出さなかった。なお売文社でフランス語翻訳を担当していたのは大杉栄である。
 売文社の仕事が半日であったため、一時期、日本蓄音機照会で往復文書を英訳する仕事もしていた。同社従業員のストライキが起こった時に、高畠が少々それを煽動したことが明るみになりクビになる。これを機に、売文社一本の正社員となった。
 当時は社会主義者に対する取り締まりが厳しかったため、政府の圧迫を避けるために「へちまの花」と題した文芸雑誌を編集していたが、第一次世界大戦による政治情勢の変化により、社会主義に対する取り締まりが軟化すると、'15 堺利彦・山川均らと「へちまの花」を「新社会」と改題し発行。カウツキーの『資本論解説』を連載するなどマルクス主義を紹介した。この頃、売文社は社員数も増え、堺、山川、高畠の三人が中心となり活動をしており合名会社組織に発展した。'16 堺利彦が衆議院議員総選挙に立候補した際、売文社は選挙事務所となり、高畠は選挙事務長で支えた(結果は落選)。
 '18(T7)ロシア革命の影響を受け「新社会」に『政治運動と経済運動』を発表。これは社会主義運動は単にストライキによる革命である経済運動のみならず、政治運動は議会進出が必要であることを強調した。この提言は、無政府主義はアナーキズム的色彩の強かった日本の社会主義に大きな波紋を広げた。この提言に反論を掲げた山川均や荒畑寒村らと社会主義運動の方法論を巡って争った。論争中に山川らが別件で数カ月入獄して不在中、「新社会」は著しく国家主義的色彩を発揮させた。
 堺や北一輝らとと共に軍人の右翼集会である「老壮会」に結成加入、自らも大衆社を創立し国家社会主義を唱えた。この流れで堺に国家社会主義運動の打診をしたが、堺は社会主義の時期は尚早と判断し、売文社を分けることを提案され了承。'19.4 堺・山川らと決別し、合名会社を解散。売文社は高畠一派が牛耳ることになり国家社会主義の発行所となった。
 支持者と共に新たな売文社で「国家社会主義」を創刊したが発売禁止を受ける。その後も、第2号、第3号、第4号と発刊したが、全て発売禁止を受け廃刊のやむなきに至った。廃刊直後、遠藤友四郎とともに「霹靂」を創刊、'20「大衆運動」、第一次「局外」を創刊。「局外」は翌年には大幅に増補し拡大版の第二次「局外」に発展したが、関東大震災により廃刊となる。
 この間、'19〜'25 福田徳三(5-1-1-6)らとマルクス『資本論』日本初の全訳に成功する。大正時代の半ばから昭和初期にかけて日本の社会主義運動は進捗期であったが、手頃な入門書はほとんどなかった。こうした中、高畠は『資本論解説』、『財産進化論』、『社会主義社会学』などの社会主義関連書籍の翻訳書を多数発表。また自身の研究成果も公表。それらは『社会主義と進化論』、『マルクス学研究』、『社会主義的諸研究』、『マルクス十二講』(『マルクス学解説』)、『幻滅者の社会観』、『論・想・談』、『地代思想史』、『マルキシズムと国家主義』、『批判マルクス主義』、『マルクス経済学』(絶筆)など多数に渡り刊行した。
 '22.12 上杉慎吉(3-1-3-9)と「急進国家主義経論学盟」を結成。'23 極右と称された岩田富美夫の「大化会」や赤尾敏の「建国会」の顧問となった。大化会の援助を受け「週刊日本」を発刊。国家社会主義の宣伝を行う。'24 第一次「急進」、'25 第三次「局外」など小雑誌を発刊し、反社会主義評論を多数発表した。
 『資本論』全訳、マルクス経済学の権威、国家社会主義者、社会評論家など多数の顔を持ち多方面で活躍。'28(S3)宇垣一成(6-1-12-1)に働きかけ急進愛国運動を推進するが病に倒れ急逝した。胃がんとされる。享年42歳。
 没後、河上肇、その門下の長谷部文雄らによって「資本論」翻訳を試みられたが、時世の困難もあり完訳には至らなかったため、高畠翻訳「資本論」は戦前を通じて唯一の全訳「資本論」となった。戦後は高畠翻訳「資本論」は二度ほど出版されたが、長谷部文雄、向坂逸郎、岡崎次郎らによって新訳が刊行されたこともあり、時代的使命を終えて今日に至っている。

<近代日本の先駆者>
<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<小学館 日本百科全集>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<平凡社 世界大百科事典>
<「高畠素之君を懷ふ」堺利彦:『經濟往来』第四卷第二號(昭和四年二月)>


*墓石は和型「高畠素之墓」。左に墓誌が建つ。妻は初江(1886.2.11-1980.5.7)。同墓には高畠仁美(1925.2.20-1957.1.12)、高畠暴夫(1917.10.11-2004.4.14)も眠る。

*墓誌には刻まれておらず当墓建立之前に、幼子を亡くしている。堺利彦の回想録に下記の記述がある。「彼の二番目か三番目の小いさい子供の亡くなつた時、彼は久しくその骨壺を埋めないで居たが、或時遂にその骨を粉にして、植木鉢の肥料にした。あの爲だらう、今年はバラが大へん善く咲いたと云つて、いつもの癖の、獨り、クツクツと自ら嘲けるような笑ひ方をして居た。」

*堺利彦の墓は神奈川県横浜市鶴見区の總持寺。


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